30年前の冬、その左足で日本中を熱狂させた男がいる。
 
 地球の裏側、ブラジルからサッカー留学生として日本にやって来たカーリーヘアの少年。黄色と黒の縦縞のユニホームをまとい、初出場の東海大一を高校日本一に導いたレフティ。古くからのファンは三渡洲アデミールという名前よりも、帰化前のアデミール・サントス、もしくは美しさを意味する愛称「ベレーザ」のほうがしっくりくるだろう。
 
 まだプロリーグが誕生していなかった当時の日本で、サッカーファンの大きな楽しみは高校選手権だった。1987年1月8日、第65回全国高校サッカー選手権大会・決勝。“聖地”国立競技場には5万人の大観衆が詰め掛けた。
 
 本人が「命を懸けた」と振り返る一戦で、左足から放たれたFK。国見が築いた6人の壁の外側を巻いて決まったバナナシュートは、語り継がれる選手権のハイライトだ。
 同大会で得点王にも輝いたアデミール・サントスは、ブラジルから一時帰国して決勝戦のゲスト解説を務めた親友のカズよりも、遥かに大きな注目と期待を集めるサッカー選手だった。
 
 しかし、英雄のその後は、あまり知られていない。
 
 ビザ取得の問題などで1学年下に入学していたため、3年生の時は年齢制限で高校の公式戦には出場できなかった。そのため、3年目は「学校半日。授業の後で電車に乗って磐田まで行き、ヤマハで練習」という生活を続けた。実力が認められて契約に至り、日本サッカーリーグでもプレーした。
 
 1992年、清水エスパルスへ移籍。1年後にジュビロ磐田と改称するヤマハに残るという選択肢もあったが、ブラジルに残してきた家族のためにも、早くプロになりたかった。
 
「杉山隆一さんに『なんで向こうに行くの? 残ってくれ』って説得されました。でも、清水にもお世話になった人がいたし、早くプロリーグでやりたかった。だから、Jリーグスタートの10チームに選ばれた清水で勝負すると決めたんです」
 
 夢にまで見たプロ生活は波乱の連続だった。創設間もない清水には、経験がなかった。1年目、翌年のJリーグ開幕を見据え、大榎克己とブラジルへ武者修行に出掛けた。凱旋帰国となるはずが、クラブの経験の薄さから外国人登録証明書を取り上げられてしまう。結果、6年間の日本居住期間が帳消しとなった。ヤマハ時代から帰化に向けて準備を進めてきて、93年から日本人として活躍するつもりだったのだが、「すべてがパーになった」。
 91年の日本人との入籍が考慮されて、95年に帰化が認められたが、それまでは外国籍選手として3つの出場枠を争わなくてはならなかった。「スタメンで起用する」「外国人は3人までしか取らない」。契約の際にかわした口約束も、残念ながら守ってもらえなかった

 エメルソン・レオン監督が指揮を執った92年から94年にかけて、清水はトニーニョやシジマールなど7人ものブラジル人を獲得している。
 
 日本人になれなかったアデミール・サントスは、彼らを上回るプレーを見せて、出場枠に食い込むしかなかった。
 
 サテライトのコーチだった大木武(現・FC岐阜監督)に「もう休め」と止められるほど猛練習を重ね、何とか出場機会を掴んだものの、身体はボロボロだった。常に足に痛みを抱え、髄膜炎も患った。
 
 オズワルド・アルディレス監督を迎えた96年は、春先からやけに調子が良く、開幕戦にも途中出場。だが、「いよいよチャンスが巡ってきた」と思った第2節の直前、またしても怪我での離脱を余儀なくされた。
 
「そこから1年……、午前午後午前午後ずっとリハビリ。ノイローゼになりそうだった。(ダニエレ)マッサーロも間接ねずみでリハビリしていたので、もう嫌になって、ふたりでバスケットボールをして遊んでいた。

 それで、ブラジルで手術を受けたいとお願いしたら『自分のお金で行け』だって。ひどいよ。本当は契約書にブラジルまでのチケット2枚と書いてあったんだけど……、いまさら言ってもしょうがない。清水での5年間は、本当にいろんなことがあった。話し始めたら朝までかかっちゃうよ(笑)。結局、運が悪かった。精一杯頑張ったけど、タイミングがすべて悪かった。それだけ」
 
 97年、コンディションが戻らずに引退した。怪我に泣き、リハビリに耐えるのも限界。ラ・コルーニャ(スペイン)への移籍話は立ち消え、日本代表入りの夢も叶わなかった。そして何よりも、信頼していた人の裏切りに遭い深く傷ついた。お金にしか興味がないと思われる大人たちの姿に、ひどく失望した。
「もう2度とサッカーには関わらない。そう思ったんです」
 
 97年、清水市内にオープンしたレストラン「バナナシュート」は、繁盛した。腕のいい料理人を雇い、自身が深夜まで勉強して身につけた豊富なカクテルや丁寧な接客が話題を呼んだ。
 
 先輩のラモス瑠偉、後輩の三都主アレサンドロなど、多くの仲間が訪れてくれた。一家の長として、愛する妻とふたりの子どもを食べさせるために、寝る間も惜しんで働いた。借金した開業資金は3年で返済できたという。
 
 それでも5年、6年と歳月が経つと、サッカーのことばかり考えている自分に気づいた。消し去ったはずの記憶、ピッチで感じた喜びや充実感が甦ってきた。もう一度あの舞台に立ちたい――。その思いを封じることはできなかった。
 
 2006年、店を畳んでサッカーの現場に復帰した。現在の肩書きは、静岡県沼津市にある製造業、株式会社イカイサッカー部のテクニカルディレクター。名刺には監督・コーチの文字も記されている。
 
 とはいえ、現在サッカー部は休部状態。実質フリーの立場にある。信頼できる伊海剛志社長は「いい話が来て、あなたが幸せになれるなら、それでいい」と言ってくれている。本人は「華やかなパラダイスは望んでいない。監督でもコーチでも、フロントでもスカウトでもいい。サッカーに関われる現場があればトライしたい」と語り、オファーを待つ。やっぱり、自分にはサッカーしかない。
 
「久しぶりの現場は本当に楽しかった。コックさんがいないと何もできないレストランと違って、サッカーなら自分ひとりで頑張れる。GKコーチがいなくても、フィジカルコーチがいなくても、選手を指導して、チームを作ることができる。大変だけどやり甲斐があるし、それに替わる仕事はない。サッカーが一番だって分かったんです」
 
 強みは多い。プレーヤーとしての経験はもちろん、ブラジルのプロ指導者ライセンス、日本のA級ライセンスも持っている。通訳の要らない流暢な日本語を話し、ブラジルとの強固なネットワークもある。元ブラジル代表監督のドゥンガやマノ・メネゼスとは、直接電話できる仲だ。コーチの勉強をしていたサンパウロでは、カゼミーロ(R・マドリー)、オスカル(上海上港)といった選手たちも指導。どういった選手が世界で成功するのか、その眼にしっかりと焼きついている。
 日本とブラジルの架け橋となり、サッカー界に貢献できる。そんな自負がある。
 
 引退の引き金になった怪我は、ひとつだけ幸運をもたらしてくれた。結婚27年目となる妻・摩紀さんとの交際は、怪我のお見舞いがきっかけだ。浜松市内の病院に入院して孤独と戦っていた青年に、お弁当を作り、髪の毛を洗い、洗濯してくれたのが摩紀さんだった。

「彼女がいなかったら、日本で幸せにはなれなかった」と感謝している妻、そして彼女と共通の宝物であるふたりの子どもたちのためにも、「もう1回、ピッチで花を咲かせたい」。それが、三渡洲アデミールの現在の夢である。
 
取材・文:粕川哲男(フリーライター)

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