2016年11月28日に起きた事件を、覚えている方は多いはずだ。ブラジルの1部リーグに所属するクラブ、シャペコエンセの一行を乗せた飛行機が墜落し、多くの尊い命が犠牲となったあの大事件だ。
 
 あれから、およそ9か月が経った。クラブ存続の危機に直面したシャペコエンセはしかし、着実に復興へと進んでいる。そして8月15日には、コパ・スダメリカーナ王者として臨むスルガ銀行チャンピオンシップで、浦和レッズダイヤモンズと対戦する予定だ。
 
 シャペコエンセの来日を記念してお届けするのは、現地在住のサッカージャーナリスト、沢田啓明氏が飛行機事故からの歩みを追ったドキュメンタリー連載。第1回は、事故の概要を改めてまとめるとともに、復興へ向けて踏み出した“第一歩”に迫る。
 
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 2016年11月28日の深夜(日本時間29日の正午過ぎ)、コロンビアの名門アトレティコ・ナシオナルとのコパ・スダメリカーナ決勝・第1レグを戦うために、ボリビアのサンタクルス・デ・ラ・シエラからコロンビア北西部の都市メデジンへと向かっていたシャペコエンセの選手、コーチングスタッフ、クラブ関係者、随行記者団らを乗せたチャーター機が、メデジン空港手前の山岳地帯で墜落した。
 
 乗客・乗員77人のうち71人が死亡。選手は22人中19人、コーチングスタッフは14人全員、クラブ関係者も11人全員、メディア関係者は21人中20人、乗員は9人中7人がこの事故で帰らぬ人となった。前日にブラジル全国リーグ第37節でパルメイラスと対戦してから、わずか30時間後の悲劇だった。
 
 一命を取り留めた3選手のうち、左サイドバックのアラン・ルシェウは脊椎を損傷し、CBのネットは頭部を強打したうえに脚を骨折(チームへの復帰を熱望する2人は、数か月間の治療とリハビリを要する見込み)。GKのフォウマンは右脚を損傷して膝から下の切断を余儀なくされ、24歳にして選手生命を絶たれてしまった。
 
 犠牲者の中には、Jリーグ経験者が5人いた。09年にヴィッセル神戸を率いたカイオ・ジュニオール監督、05年に柏レイソルでプレーしたMFのクレーベル・サンターナ、12年にセレッソ大阪、13〜14年にジェフユナイテッド市原・千葉でゴールを量産したFWのケンペス、10年に京都サンガでプレーしたCBのチエゴ、川崎フロンターレに15年から短期レンタルで在籍したMFのアルトゥール・マイアである。15年にアビスパ福岡でプレーしたボランチのモイゼスは、遠征メンバーに入っていなかったため難を逃れている。
 
 コロンビアの航空当局によれば、事故の直接の原因は燃料不足。国際的な航空規則では、予定している飛行時間にプラスして最低でも1時間半は飛べるだけの燃料の搭載が義務付けられているが、このチャーター便には飛行時間ぎりぎりの燃料しか積まれていなかったばかりか、途中で別の空港に立ち寄って補給する計画もなかった。
 
 燃料が残り少なくなり、電気系統のトラブルを誘発してメデジン空港に緊急着陸を要請したものの、ちょうど同じ頃、コロンビアの大型旅客機が機械系統の問題で緊急着陸する態勢に入っており、空港上空を旋回して着陸の順番を待つ間に燃料が底をついて墜落したのである。この飛行機を運航したボリビアの航空会社に最大の非があるのは当然ながら、航空規則に背く杜撰な飛行計画を容認したサンタクルス・デ・ラ・シエラ空港の責任も問われている。
 
 シャペコエンセは1973年、ブラジル南部の人口約21万の中都市シャペコで創設された新興クラブだ。当初は成績が振るわず、財政状況が悪化して存続の危機に立たされた時期もあった。しかし08年、地元で果物の配送業を営む豪腕実業家のサンドロ・パラオーロが、「南米の頂点を目指す」という無謀としか思えない目標を掲げて会長に就任。地元政財界に呼びかけてスポンサーを募り財政基盤を立て直すと、下部組織に投資して若手育成に力を注ぎ強化を図った。
 
 当時の年間予算は、国内ビッグクラブの数十分の一。外部から選手を獲得する場合は、「費用対効果を重視するとともに、チームのために血を流すことを厭わない選手だけを集めた」(故パラオーロ会長)という。
 
 シャペコは小さな都市で、商店やレストランなどで選手と市民が直接触れ合う機会が多い。選手は頼まれるといつでもサインに応じ、笑顔で写真に納まる。そんな関係性が築かれていたからこそ、市民は選手に親しみを覚え、家族連れでスタジアムに足を運んで懸命に応援し、選手たちも市民の熱い応援を受けて死力を尽くした。
 
 09年に全国リーグ4部に参戦して3位に食い込み3部へ昇格。12年に2部へ上がると、13年にトップリーグ入りを果たした。わずか5年で4部から1部へステップアップを遂げるという世界でも前例のない快挙だった。さらに16年は、コパ・スダメリカーナでインデペンディエンテ、サン・ロレンソ(ともにアルゼンチン)などの強豪を撃破してファイナルに進出。各方面で「奇跡のクラブ」と称賛され、市民にとってシャペコエンセは最大の誇りにしてアイデンティティーとなっていた。
 
 愛するクラブの快進撃に、街は沸き立っていた。それだけに、ショックは大きかった。まるで肉親か親しい友人を失ったかのように。
 
 事故の第一報が流れた11月29日、多くの市民が自然発生的にクラブハウスへ集まった。詳細を聞いては泣き崩れていくファンたち。見知らぬ者同士が抱き合い、互いを慰めた。学校では、生徒も先生も泣き出して授業にならず、以後4日間、市内のすべての学校が休校となった。そしてシャペコ市は、30日間、喪に服することを発表するのである。
 
 事故の知らせは瞬く間に世界中へと伝わり、レアル・マドリー、バルセロナ、マンチェスター・ユナイテッドといった欧州クラブがチーム練習や試合の前に黙祷を捧げれば、リオネル・メッシやクリスチアーノ・ロナウドらスーパースターが追悼の言葉を寄せて、故人を悼んだ。
 
 南米サッカー連盟もすぐに反応した。コパ・スダメリカーナ決勝の中止を決定したのだ。対戦するはずだったアトレティコ・ナシオナルは、「タイトルはシャペコエンセに与えられるべきだ」と訴え、これを受けて連盟は後日、シャペコエンセを優勝チームに認定している。
 
 ブラジル人の心を打ったのが、11月30日の出来事だ。コパ・スダメリカーナ決勝の第1レグが行なわれるはずだったその日の夜、A・ナシオナルのホームスタジアムで追悼セレモニーが催され、10万を超える群集が詰めかけたのである(スタンドは4万人の観衆で埋まり、入りきらなかった6万人以上がスタジアムを取り囲んだ)。この模様はブラジルでもテレビ中継された。会場に溢れていたのは、A・ナシオナルのサポーター、メデジン市民、コロンビア国民の思いやりだった。
 
 12月3日には選手、コーチングスタッフ、クラブ関係者らの遺体がブラジルに搬送され、シャペコエンセのホームスタジアムで合同葬が営まれた。スタンドは2万人で埋まり、豪雨の中、選手たちの棺がピッチに運び込まれる。
 
「チャンピオンが帰ってきた!」
 
 サポーターたちは涙を流しながら、何度も何度もそう叫び続けた。
 
 復興に向けて本格的に動き出したのは、それから6日後だ。クラブはサントス、クルゼイロなど国内の名門を率いた経験を持つヴァグネル・マンシーニの新監督就任を発表したのである。マンシーニは、決意をこう語った。
 
「ジュニオール前監督、選手らの遺志を継いで、また市民に誇りと喜びを与えられるようなチームを作る」
 
 さらにクラブは、新会長を決める選挙を実施。その結果、故パラオーロの後任は実業家のプリニオ・ダビ・デ・ネスに決定した。強化部も新たに発足し、クリスマス、新年の休みを返上してチーム作りに奔走。1月末までに、16年に京都サンガでプレーしたボランチのアンドレイ・ジロットなど30選手を獲得し、U-20から9選手を昇格させた。この他、事故を免れたモイゼスら3選手が引き続きチームに残り、奇跡の生還を果たした前述のルシェウとネットが数か月後の復帰を目指した。
 
 1月4日、チームはプレシーズン合宿を開始し、21日にはホームでパルメイラスと親善試合を行なった。つまりパルメイラスは、事故前に最後に対戦し、事故後に最初に対戦したチームになったわけである。
 
 パルメイラス戦の前、生き残った3選手がピッチに登場し、コパ・スダメリカーナの優勝カップが授与された。事故のこと、命を落とした仲間のことを思い出したのだろう。3人とも涙が止まらない。亡くなった選手、クラブ関係者の遺族にも優勝記念メダルが渡され、号泣する遺族を見てスタンドのサポーターも涙した。
 
 試合は前半はAチームが、後半はBチームがプレー。顔ぶれがすっかり様変わりしたシャペコエンセは連携不足が懸念されたものの、中盤で激しく守り、手数をかけずに攻めるスタイルはこれまでと変わらない。16年シーズンの国内王者に先制されたがすぐに追いつき、逆転にも成功する。しかし後半に追いつかれて試合は結局、2-2のドローで終了した。なお、この試合の収益は、事故で亡くなった選手とクラブ関係者の遺族に送られる。
 
 そして26日、事故後最初の公式戦をホームで迎えた。南部4州の強豪など16クラブが参加するプリメイラ・リーガ。相手はジョインビーレだった。マンシーニ監督は3日後に開幕する州選手権にプライオリティーを置き、Bチームを送り出した。
 
 序盤は相手に中盤を支配されて劣勢に立たされたものの、次第に落ち着いてパスを回せるようになり、地元観衆を沸かせる。後半に入るとサイド攻撃から再三に渡ってチャンスを作ったが決め切れず、結局はスコアレスドローに終わっている。それでも大いなる一歩を踏み出したチームに対して、スタンドからは拍手が鳴りやまなかった。

(第2回につづく)
 
取材・文:沢田啓明
 
※ワールドサッカーダイジェスト2017.02.21号より加筆・修正
 
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【著者プロフィール】
さわだ ひろあき/1986年にブラジル・サンパウロへ移り住み、以後、ブラジルと南米のフットボールを追い続けている。日本のフットボール専門誌、スポーツ紙、一般紙、ウェブサイトなどに寄稿しており、著書に『マラカナンの悲劇』、『情熱のブラジルサッカー』などがある。1955年、山口県出身。