5月16日にようやくブンデスリーガが再開したが、コロナ禍のなか、いつもなら熱狂に包まれるドルトムントとシャルケのダービーも、無観客で行なわれた。

 そのレビア・ダービーでファンの心を掴んだのが、香川真司だった。ドルトムントのユニホームを纏って初めて臨んだシャルケ戦でいきなり2得点を決め、チームを敵地での勝利に導いたのだ。試合後、チームバスでドルトムントへ帰った日本人MFは英雄として迎えられ、歓喜するファンたちに肩車されたものだ。

 香川が愛されたのは、ダービーに強かったからだけではない。成功を収めたチームの重要な柱のひとりだったからだ。ユルゲン・クロップ監督の下で、攻撃的MFとして2010-11、11-12シーズンとブンデスリーガ連覇、11-12にはDFBカップとの2冠を達成。世界中から注目され、マンチェスター・ユナイテッドへと羽ばたいていった。

 そのイングランドの名門では本領を発揮できなかったサムライ戦士を、14年夏の移籍市場最終日にドルトムントが買い戻した。それは、ソーシャルメディアで「#freeShinji」キャンペーンを行なうなど、香川を連れ戻してほしい訴えたファンの願いを叶えるためでもあった。どれだけこの男が愛されていたかが分かるだろう。
 
 香川と同様に、ブンデスリーガでもトップのカテゴリーに入る名手だったのが、内田篤人だ。17年にウニオン・ベルリンへ移籍するまでシャルケで7シーズンに渡ってプレーした右SBは、攻守両面でハイレベルだった。

 そのふたりが活躍する随分前、1977年の夏にブンデスリーガの日本人第1号となったのが、ケルンへやってきた奥寺康彦だった。ドイツの3チームでプレーし、ケルンでの1シーズン目には、リーグとカップ戦で2冠を獲得した。その後にビーレフェルトでプレーした尾崎加寿夫が続いたが、正直、ほとんど記憶に残っていない。

 奥寺が好印象を残したにもかかわらず、尾崎以降はブンデスリーガではしばらく日本人不在の時代が続き、3人目の高原直泰がハンブルクにやってきたのは03年冬だった。当初は懐疑的な見方もあったが、ハンブルクとフランクフルトで計5年間プレーし、135試合に出場して25ゴール。エキゾチックな存在だった“スシボンバー”は、クオリティーの高さを証明し、その後に続く多くの日本人選手のために道を切り拓いたとも言える。
 
 現在フランクフルトでプレーする長谷部誠は、日本人選手の最多出場記録(305試合)を持つ。08年に浦和レッズからウォルフスブルクへ加入し、翌年にはブンデスリーガ制覇を経験。ニュルンブルクを経て、14年に移籍したフランクフルトへでも、18年にDFBカップ優勝に貢献した。

 常にチームの中心で、36歳の今も先発メンバーに入ることが少なくない。持ち味の堅実なプレーに加え、フレンドリーで謙虚な性格のために、フランクフルトでは最も人気のある選手のひとりだ。ただ、もっと派手な選手であれば、ドイツにおけるステータスもさらに高かっただろう。

 人気があると言えば、ケルンでの大迫勇也もそうだった。16ー17年シーズンの最終節マインツ戦、87分に大迫が決めたチーム2点目がスタジアムを揺さぶった。このゴールで、翌シーズンの欧州カップ戦出場が決まったからだ。なにしろケルンのファンは、この舞台に出るのを25年間も待っていたのだ。この瞬間に、大迫の名前がケルンのクラブ史にしっかり刻み込まれたのは間違いない。ただ、残念なのはブレーメンではケルン時代のようなパフォーマンスを発揮できていない点だ。
 
 両サイドバックでプレーした酒井高徳は、シュツットガルト、そして降格してしまったとはいえハンブルクでも、手堅いパフォーマンスでポジティブな印象を残した。

 ドルトムントが破格で獲得した香川がいきなりブレイクした1年後、それに続こうとしたバイエルンは、ガンバ大阪のトップタレントと言われた宇佐美貴史をレンタルで獲得した。ブンデスリーガの次の日本人スター選手として歓迎されたが、バイエルンで3試合でしかプレーできずに1年後にホッフェンハイムへ。アウグスブルクとデュッセルドルフでもプレーしたが、ノーインパクトに終わった。

 とはいえ、総じてブンデスリーガにおける日本人選手の評判は上々だ。技術が高く、何より真面目でプロ意識が高く、エキセントリックなチームメイトが少なくないなか、ネガティブに目立つことはほとんどない。それは岡崎慎司、清武弘嗣、細貝萌、酒井宏樹、武藤嘉紀、原口元気、乾貴士、鎌田大地といった選手たちについても、言うことができる。

文●マルクス・バーグ
翻訳●円賀貴子

【著者プロフィール】
長年ドルトムントを中心に取材を続け、ドイツ公共放送の人気スポーツ番組「Sportschau」のウェブ版でドイツ代表番も務める。ドルトムント在住。