東京五輪で悲願の金メダル獲得を期す、選ばれし22人。全世界注目の戦いに挑んでいる彼らは、この大舞台に辿り着くまでどんなキャリアを歩んできたのか。

 オーバーエイジとして頼もしい活躍を見せる酒井宏樹。常に謙虚で、誰に対しても優しい性格のSBだが、幼少期には時として、それが弱々しくも映った。しかし酒井はいまや、ひと度ピッチに立てば、闘志を剥き出しにして勝利だけを追い求めるファイターと化す。その二重人格はいかにして形成されていったのか。

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 幼い頃の酒井宏樹は、活発なふたりの兄に比べると人見知りで、いつも母親の背中に隠れているような子だった。兄の影響でサッカーを始め、柏マイティーに入団したのが幼稚園年長の時だ。

 生粋の“柏っ子”である宏樹は地元のJクラブ、柏レイソルのファンになり、練習場へ赴いた際には当時柏でプレーしていた酒井直樹(現・柏U-18監督)に「名前が一文字違いなんです」と言い、サインを貰って一緒に写真を撮ったという逸話がある。

 引っ込み思案ゆえ、柏マイティー入団後も周囲に慣れるまでには多少の時間を要したが、慣れてしまえば「コート狭し」と言わんばかりに溌剌としたプレーを見せた。ジュニア時代の宏樹を指導した柏マイティーフットボールクラブ代表・倉持行一は、当時をこう振り返っている。
 
「プレーに力強さと、一瞬の速さがありました。ボールを奪われそうになっても、奪われずに前に出て行けるバネを持った選手でした。蹴り方も今とまったく変わっていません。ただ今と違うのは、うちではFWをやっていたんです」

 小学5年の時には上級生のチームに入り、エースストライカーとしてゴールを量産した。右サイドのスペースに流れるプレーを好み、サイドからクロスを上げる、または斜め45度の角度からシュートを放ち、ネットを揺らす。

「宏樹のことを知らないチームと試合をすると、だいたい3分に1点は取っていたと思います。あれだけの身体能力があるので、子どもたちのなかでは圧倒的だったんです」

 身体能力に優れた子は、時にその能力頼みに陥る傾向があるが、宏樹は違っていた。「ボールを持ったら自由にやらせる」という柏マイティーの環境下で自分の特長を存分に発揮しながらも、倉持が「両足のシュート練習も、1対1の練習も、宏樹が一番やっていました」と振り返るように、熱心にトレーニングに打ち込み、キック、テクニックといった技術レベルを身につけていった。

 高い身体能力に精度の高いキックとテクニックが加われば、もはや向かうところ敵なしである。とある敗色濃厚の試合では、土壇場に宏樹が同点弾を決め、PK戦へ持ち込んだ。すると自らがGKを務め、相手のキックを止めて勝利したこともあった。チームではずば抜けた存在で、揺るぎない中心選手。5年生にして柏市トレセンに選ばれたのも当然だった。
 だが初めて参加したトレセンは、宏樹に痛烈なショックを与えた。大半が柏U-12のメンバーで構成される柏市トレセンには、自分よりも上手い選手がゴロゴロいたからだ。

 そのなかのひとり、柏U-12の工藤壮人(現ブリスベン・ロアーFC)は、自分よりもひと回り身体の大きい柏マイティーのストライカーを見て、「ずいぶんデカイ奴がいるなぁ」との印象を抱いたという。

 柏U-12のメンバーとの会話はほとんどなかったが、トレセンでは工藤、比嘉厚平(現・柏アカデミーコーチ)、指宿洋史(現・清水エスパルス)ら、のちに“黄金世代”と呼ばれる選手たちとの邂逅があった。

 人見知りの性格ゆえ最初は馴染めなくとも、環境に適応するにしたがい持ち味を発揮し始める一面は、昔も今も変わらない。3回、4回とトレセンに参加していくうちにチームに慣れると、いつしかポジションを獲得していた。そのエピソードは、まるで柏のトップチーム昇格後、しばらく潜伏期間をおいて出場機会を手にした時と重なるものがある。

 柏マイティーやトレセンでの活躍が目に留まり、小学6年になると柏U-12の練習にも参加した。中学でレベルの高いチームに行くか行くまいか悩んだ挙句、柏U-15への入団を決意。無事セレクションを通過して、2003年からは黄色のユニホームを身に纏うことになった。

 小学生時代まではチームメイトから一目置かれ、同年代の間で“ガキ大将”のポストにいた宏樹だったが、レベルの高い選手が揃う柏U-15では、一転して”いじられキャラ”になった。ただし、柏マイティー時代もふたつ年上の子たちからはいじられ、非常に可愛がられていたらしく、もともと“ボス”と呼ばれるようなタイプではなかったことが分かる。
 
 ほどなくして宏樹は、柏U-15で自分の人生に大きな影響を及ぼす指導者、吉田達磨(現シンガポール代表監督)と出会う。

「走り方が綺麗でスタイルが良い。馬力があって、ボールを躊躇なく前へ運ぶ選手。基本的に今と変わりませんが、良い意味でのトライを繰り返しては、失敗している子でした」

 それが、吉田が語る中学時代の宏樹の印象だ。柏U-15ではいくつかの転機が訪れた。そのひとつがポジションの変更である。

「コンバートなんて大げさなものではなく、育成年代にはよくある、いろいろなポジションもやらせてみようという経験の一部です。アタッカーに置いてレギュラーを取れないかと言ったら、決してそんなことはなかったと思いますが、戦術的な部分を整理したい考えがありました。酒井は戦術を理解しないでもやれることがたくさんありました。しかし、プロとしてフィジカルの強さが売りになるにしても、もっといろいろなプレーができたほうが酒井も楽しくなるんじゃないかと思いました」

 吉田は選手が元来持つ素材の部分には手を加えない。宏樹の場合、質の高いキック、スペースに合わせるクロスなどがそれに当たる。反面、SBとして見た時に、攻守両面におけるポジショニング、オーバーラップを仕掛けるタイミングに関しては修正が必要だった。
 当時、右SBには御牧考介(現・柏U-15コーチ)という卓越した戦術眼と高い技術レベル、そして抜群の安定感を持つ好選手がいたため、宏樹は左SBで起用されていた。その際、自分たちがボールを保持しているにしても、右サイドが攻めていた場合、左サイドはどうするのか。攻撃や守備の局面で、自分はどこにポジションを取らなければならないのか。そういったことを常に頭に入れながらプレーをしてほしいという考えが吉田にはあった。さらに吉田はこう続ける。

「戦術面を解決しなくても、ある程度のレベルには到達したと思います。でも、酒井は高い能力を持っている選手だから、持って生まれた能力のない人からすれば、持っている人が徹底的にやるというのは”マナー”に近いことだと思います。本人はなぜ戦術に関して細かく言われているのか、よく分かっていなかったところがあったみたいですけど」

 戦術以外に、もうひとつネックとなったのがメンタル面だった。宏樹の優しさ、純粋さはもちろん長所であり、人としては素晴らしい魅力なのだが、時にそれはピッチ上において気後れや自信の喪失、判断ミスなど、プレーに悪影響を及ぼしてしまうケースも多かった。04年から05年にかけて、吉田とともに柏U-15のコーチを務めていた酒井直樹は、そんな宏樹の精神的な弱さを「歯痒く思っていた」と話す。

 そんななか、05年のフランス遠征がひとつのターニングポイントとなる。軽い負傷を抱えたままチームに帯同した宏樹は当初、「僕は無理です」と怪我を理由にトレーニングを休み続けていた。しかし、2週間に及ぶ遠征のラストマッチとなる地中海選抜戦では、一転して自ら「出ます」と吉田に出場を志願したのだ。

 のちに9人のプロ選手を輩出する宏樹の代は、“黄金世代”の名に相応しく、中学3年の時点で選手たちは非常に高い意識を持って練習、試合に挑んでいた。試合を休むことが何を意味するのか。穴を空けることがどれほどの痛手になるのか。15歳のチームながら、すでに“プロ意識”に近い雰囲気に包まれていたため、同期の選手たちはまったくと言っていいほど欠場はしなかった。そんなチームメイトが作り出す空気に、おそらく宏樹も触発されたのだろう。
 
 地中海選抜戦の同じピッチに立った工藤は回顧する。

「前日まで休んでいた酒井が、途中から出てきて流れを変えたんです。0-2で負けていた試合を酒井の活躍で引っくり返して、3-2で逆転勝ちしました。確かアイツ、2アシストぐらいしたと思います」

 コーチとして遠征に帯同していた酒井直樹もこう言って笑みを見せる。

「怪我をしているどころか、普段以上の好パフォーマンスでした。結局、怪我ではなくて、精神的な弱さが原因だったんじゃないかと思います。でもあれ以来、帰国したあとも宏樹が元気になったという印象を受けて、僕は弱々しさが抜けてきたのかなと思いました」

 そういった様々な経験を積みながら、少しずつ弱さを克服してきた宏樹は、高校2年次には“黄金世代”の仲間を抑えて、トップチームに2種登録される。出場機会はゼロで、ベンチ入りすらなかったものの、トップチームとU-18を行き来しながら練習に励み、当時の監督・石﨑信弘(現・富山監督)からも、フィジカルコンタクトの強さ、身体能力の高さは高く評価されていた。
 一方、依然として戦術眼の粗さは覗かせており、試合中には何度も吉田から戦術面の指摘を受け、時には消化し切れずにゲームから消えてしまうことも見受けられたが、それでも常に必死にプレーを続けてきたおかげだろう。

 高校3年夏のスペイン遠征、ビジャレアル国際大会で対戦したリバプール戦では、身体の大きな外国人選手とマッチアップし、「酒井じゃなかったら絶対にやられていた。酒井がフィジカルの争いで対等に渡り合えたのは大きかった」と吉田が評価を与えるほど、チームが勝利を手にするうえで宏樹の存在は重要な生命線となった。

 さらに同年秋の高円宮杯全日本ユース選手権では、その夏のインターハイ王者・流通経済大付柏高と対戦。ここでも左SBに入った酒井が、まさに〝無双〟とも呼べる働きでサイドを蹂躙し、3-0という完勝に大きく貢献してみせた。

 09年、U-18からクラブ史上最多となる6名のトップ昇格の中には宏樹の名もあった。不運だったのは当時の柏が開幕直後から残留争いの渦中にあり、若手にチャンスを与えるには難しい状況であったことだ。

 そこでクラブは先を見据え、武富孝介(現・京都)とともに半年間のブラジル留学に向かわせる。この短期留学の間に、技術レベルが飛躍的に向上し、強靭なフィジカルを身に付けたわけではなかった。ただ、過酷な環境下で、プロとして生き残ろうとするハングリーなブラジル人選手たちの姿を目の当たりにしたことで、宏樹は自分自身の甘さを認識した。
 
「酒井は『僕は一生懸命やっているんだけどダメなんだ』というのを見てほしいんです。だから変な悔しがり方もしますが、ブラジルから帰ってきたあとはそれが薄れてきて、本気になったというか、なりふり構わなくなりました」(吉田)

 加えて、帰国後には監督がネルシーニョに代わっていた点も大きかった。このブラジル人指揮官は先入観抜きに“その時”の選手を見て評価を下し、チャンスを与える。そして11年、チャンスをもらった宏樹がついに大ブレイクを果たす。

 開幕戦こそメンバー外だったものの、東日本大震災の影響によるリーグ戦の中断明けから右SBのレギュラーを獲得すると、レアンドロ・ドミンゲスと形成する右サイドのコンビは「柏の最大の武器」と相手から恐れられた。

 この年、宏樹は柏のJ1初制覇に貢献したばかりか、リーグ新人王も獲得し、開催国王者として出場した年末のFIFAクラブ・ワールドカップでは、のちにフランスのリーグ・アンで激しいバトルを繰り広げることになるネイマール(当時サントス)との初対決で、人生で初めてワールドクラスに触れた。目覚ましい飛躍は海外クラブのスカウトの目にも留まり、12年7月にはハノーファーへ活躍の場を映すことになる。
 
 しかし12年以降は順風満帆だったわけではない。ハノーファーの最初の2シーズンはサブに甘んじる機会が多く、「自分は海外でも通用する」と思って海を渡った自らの甘さを痛感した。

 日本がベスト4まで勝ち進んだ12年のロンドン五輪は初戦のスペイン戦で左足首を負傷し、個人的には不本意な出来に終始した。さらに、14年のブラジル・ワールドカップは代表メンバーに選ばれたものの、出場機会は1試合もなく、帰国した際には「悔しい想いすらできなかった」と同大会を振り返った。

 ただ、謙虚な性格の宏樹は自身を客観視する目を持ち、うまくいかない原因を把握して自らの成長に変えられる選手だ。ドイツでの4年間は苦しいことのほうが多かった。その苦しい経験を乗り越え、糧にしたからこそ、16年7月に移籍したオリンピック・マルセイユで定位置を勝ち取り、フランス国内でそのプレーを絶賛され、日本代表でも不動の右SBへと変貌を遂げたのである。

 柏マイティーの事務所には、宏樹がこれまで在籍したクラブと日本代表のユニホームが飾られ、そこには宏樹のサインが入れられている。
 
「小学校の卒団式に、(宏樹の)お母さんには『怪我をしない限りプロになれると思います』と伝えたんです。当時、私も先にサインを貰っておこうかなと言っていました。それが現実になりましたね」(倉持)

 25年前、いつも母親の背中に隠れていた人見知りでおとなしい少年は、何度も何度も壁にぶち当たりながら、自身の弱さを克服してきた。常に謙虚で、誰にでも優しい性格は今でも変わらないが、彼自身が「サッカーでは二重人格なんです」と冗談を飛ばすように、ピッチの中では一転して戦うフットボーラーへと豹変する。

 ドイツとフランス、そしてロンドン五輪と二度のワールドカップを経て凄みを増したそのプレーの数々を、宏樹は自国開催の五輪で余すところなく発揮することだろう。(文中敬称略)

取材・文●鈴木 潤(フリーライター)

※サッカーダイジェスト2021年7月22日号から転載。

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