東京五輪で悲願の金メダル獲得を目指すU-24日本代表。全世界注目の戦いに挑んでいる彼らは、この大舞台に辿り着くまでどんなキャリアを歩んできたのか。

 ここで取り上げるのは前田大然だ。持ち味はスピードを生かして攻守にアグレッシブに走り回るプレー。そのスタイルにたどり着いたのは、高校時代のある経験がきっかけだという。部活からの除籍――。本人からすれば苦い思い出かもしれないが、その出来事が最大の転機だった。

――――――――――――◆―――――――――――――◆――――――――――
 
 山梨学院高の監督だった吉永一明が前田と出会ったのは約9年前。前田が中学3年生の時だった。吉永は当時の印象をこう口にする。

「まあ、足は速かったですね。でも今のように特別な武器っていう感じではなかったと思います」

 今でこそ「前田の武器は?」とサッカーファンに問えば、ほとんどの人が「スピード」だと答えるだろう。ただ、かつては「速さをチームのために生かせていなかった」(吉永)。

 では、前田はいかにスピードをチームプレーに落とし込めるようになったのか。それは高校時代のある出来事が深く関わっている。
 
 時は2010年1月11日。冬の高校選手権・決勝で山梨学院が青森山田を1−0で下し、初出場で初優勝。その快挙に羨望の眼差しを向けた前田は、大阪から山梨への越境を目標に掲げた。吉永はこう語る。

「彼が中学3年生の夏、(大阪の)堺で行なわれた大会に山梨学院が出ていました。その時に練習参加をしてもらって試合にも出て、確か点も取ったのかな。うちの高校への進学を希望してくれているという話も聞いたので、誘わせてもらいました」

 こうして晴れて希望する山梨学院サッカー部の一員となった。寮生活を送りながら懸命にサッカーに取り組み、1年生ながら徐々に頭角を現わしていく。しかし、その冬に「大きなターニングポイント」(吉永)を迎える。

「大然が1年生の1月か2月に規律を守れないようなことがありました。横柄な態度が同級生の中で見られたんですね。それは絶対に許されないと思い、除籍を決断しました」
 
 吉永は台頭する前田の除籍を相当に悩んだ。それでも、サッカー選手である以前にひとりの人として考え、苦渋の決断を下した。大阪の実家にも足を運び、「このままでは置いておけません。転校も含めて考えていただきたい」と両親に伝えたという。

 前田は当時16歳でなおかつ親元を離れていた。逃げ出してもおかしくないようなシチュエーションだっただろう。それでも、前田は部への復帰を目指し、心を入れ替えていく。

 サッカー部の朝練が始まる7時前後にひとりで走り込みを始め、他の生徒が登校する前に校内を掃除。普段の学校生活もこれまで以上に真面目に送った。
 
 サッカー部ではなかったため、吉永は接触を極力避けたが、前田の担任の先生など多くの人と連絡を取り、見守り続けた。そこからしばらく経ち、ある決心をする。

「大然がだいぶ変わってきたタイミングで、サッカー部に戻る準備じゃないですけど、社会人チームで週に何回かボールを蹴る機会を与えました。これもいろんな関係者が動いてくれましたね」

 その後、除籍から約1年経ったある日、話し合いの場を設けた。吉永には「反省もしていて心も入れ替えていた」ように映り、本人にも復帰の意思があったという。そして、他の部員の賛同も得て前田は部に戻ることになった。
 
「大然の東京五輪のメンバー入りが決まって、彼の母親と連絡を取りました。『あの1年間は本当に大きかった』と言われましたけど、私もそう思います。大然がいろいろなことを考えて戻る努力をして大きく変わった。

 なにより、人のために働くという力が身に着きました。それがサッカーにも表われ、チームのためにスピードを生かせるようになったんじゃないですかね」(吉永)

 前田自身も今年6月29日に行なわれたオンライン取材で同じような想いを口にした。

「それ(高校1年生)までは自分が自分がという感じでした。ただ、ひとりではサッカーも生活もできない。たくさんの人の支えがあるからプレーできていると再確認しました。チームのために走るというマインドは、あの時に学びました」

 こうして前田は空白の1年を経て、足の速さを生かした献身的なスタイルを身に付けたのだった。
 
 前田が1年間もサッカー部にいなかったため、後輩は復帰の際に初めて、そのプレーを目の当たりにした。1学年下の相田勇樹(現・八戸)は当時をこう振り返る。

「噂では聞いていましたけど、想像以上のバケモンでした(笑)。凄まじいスピードで裏に抜けるし、身長はそんなに高くないのに、空中戦がめちゃくちゃ強い。あと守備にも迫力がありましたね」

 相田が今でも印象に残っている出来事がある。ある日の紅白戦。前田が相手CBに猛烈なプレッシャーをかけてボールを奪うと、そのままゴールを決めてみせたのだ。そのCBはこう言った。「追ってくる音が聞こえない」と。いつしか車の『プリウス』という愛称が付けられたという。静かなのに速い。言い得て妙な表現である。

 話は戻るが、前田がサッカー部に復帰する時、吉永はこう話していた。

「大然には『持っているエネルギーすべてをサッカーに注いでほしい。高卒でのプロ入りを目指そう』と呪文のように言い続けましたね。ブランクもあって大変だったはず。でも、可能性はあると思いました」
 
 その結果、驚異的な成長を遂げる。

 オフでも「筋トレやシュート練習は欠かさないなど、地道にトレーニングを続け」(相田)、高校3年次のプリンスリーグ関東では、12ゴールで得点王に輝いた。

 選手権は県予選の決勝で敗れ、夢見た全国大会の舞台には立てなかった。それでも、山梨学院への進学を後悔はしていないだろう。吉永をはじめ、多くの関係者に支えられながら高校を卒業し、松本山雅FCへの入団を勝ち取ったのだから。

 吉永は今でも成長を見守り、連絡を取っている。

「東京五輪のメンバー発表前夜に僕も落ち着かなかったので、『いよいよだね。どういう結果になっても、これからも応援しているから』とLINEを送り、『やるだけやったので、これからもやり続けます』と返事をもらいました」

「大然は飄々としているから、慕われているか分からない」と笑う吉永だが、きっと恩師だと思われている。日本代表に初選出された選手が育成年代の恩師へ贈る『ブルーペナント』というものがある。誰に贈るかは選手本人が決めるもので、19年の6月24日のチリ戦でA代表デビューした前田のペナントは、吉永へ贈られたのだ。

 高校時代、前田は「有り余る元気の出しどころを間違えて」(吉永)約1年間も部活から離れた。しかし、その空白の1年間がなければ、今の姿はなかっただろう。

「山雅さんでも水戸(ホーリーホック)さんでもいろんな指導者にお世話になって今があるはずです。もちろん大然も努力をして地道に積み重ねてきた。手がかかった分、今の頑張っている姿は嬉しいというか、感慨深いですね」(吉永)
 
 愚直に、がむしゃらに、チームのために――。高校時代の経験を糧に東京五輪という檜舞台でも存分に力を発揮してほしい。その勇姿がお世話になった両親や吉永、ひいては山梨学院関係者へのなによりの恩返しになるはずだから。〈文中敬称略〉

取材・文●古沢侑大(サッカーダイジェスト編集部)

【日本代表PHOTO】東京オリンピックに挑む、選ばれし22選手を紹介!