東京五輪で悲願の金メダル獲得を期す、選ばれし22人。全世界注目の戦いに挑んでいる彼らは、この大舞台に辿り着くまでどんなキャリアを歩んできたのか。

 フランス戦では右SBとして途中出場して奮闘し、ムード―メーカーとしてもチームを盛り上げる。そんな橋岡大樹は埼玉県浦和市で生まれ、その才能を育くんでいった。その成長の過程には、サッカー街での様々な出会いがある。

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 旧浦和市は日本でも指折りのサッカーの街だ。それは昭和の時代からサッカー少年団の団数と団員数が、軟式野球やバスケットボールより多かった歴史を見れば分かる。かつては市内すべての小学校にサッカー少年団があり、現在も国内最多の36チームが活動している。

 各少年団の凄腕を集めた選抜チームFC浦和は、全日本少年大会で、静岡・清水FCの8度に次ぐ4度の優勝を数える名門だ。橋岡大樹の3つ上の兄・和樹もその主力として、2008年の第32回大会を制した。

 小学校に上がった橋岡が兄の応援に出掛けるようになると、FC浦和で兄のチームメイトだった勝野瑛の父・敏志と出会う。ここから両家は昵懇の仲となり、中でも橋岡は勝野家の“末っ子”として、今でも可愛がられている。
 
 親の忠告に馬耳東風でも、勝野の説教は聞く。中学生になると母の深雪は「もっと真面目にやるように言って下さい」としばしば頼ったほどだ。面倒を見てもらった瑛への義理も絶対に欠かない。

 サッカーを始めた6歳から、橋岡はGKに憧れた。「GKでもないのにGK練習ばかりしていたので、インサイドキックの練習とリフティングをするよう、会うたびに指示しました」と勝野は回想する。

 元FC東京の浅利悟も在籍した浦和大久保少年団で力を付け、6年生で170センチになったFWは、得点を量産するエースとして鳴らした。

 08年の全日本少年大会でチームを優勝に導いた町田隆治監督は5年生の秋、橋岡をFC浦和に招集。「一瞬のスピードと身体の強さが特長で、得点感覚も高かった。身体の使い方が上手く、基礎が出来上がっていましたね」と当時の姿を解説する。
 
 さいたま市南部少年指導者協議会の技術委員長も務める町田は、大分トリニータ・町田也真人の父で、11年5月10日にスタートした浦和レッズジュニアアカデミーの発足にも参画。旧浦和市の少年団から5、6年生を選抜し、レッズのコーチ陣に指南してもらうプログラムだ。

 橋岡はその一期生で、当時指導した内舘秀樹・現ジュニアユース監督の印象は、町田と同じだった。

「スピードと身体能力の高さはずば抜けていた。引退して2年半くらいで私もまだ動けた頃なのに、本気にならないと速さで小6にやられてしまいそうなこともありました」

 レッズのジュニアユース加入後、勝野ファミリーとの絆は一層固くなる。兄と瑛は3年早くレッズの下部組織に進んでいた。

 中学2年でDFに転向した橋岡は、3年生になると大槻毅監督の目に留まり、ユースへの“飛び級”を果たす。日本クラブユース選手権(U-18)関東大会2次リーグは5月31日の第2節から、プリンスリーグ関東は7月6日の第7節から先発し、15歳が高校生と互角に渡り合った。

 試合では、特にCBの兄とボランチの瑛が右SBの橋岡を手厚く援助し、文句や注文をつけながらもみんなが大事にしてくれた。「天性の明るさ、脚がつっても走り抜くひたむきさがあったから、先輩が守ってくれたのでしょう」と勝野。
 
 橋岡がユース在籍時、町田は「浦和の少年団出身でレッズのアカデミーを経由してプロになれるのは大樹だね、って指導者の間では話題になっていました」と述懐する。

 いとこで、陸上男子走り幅跳びの橋岡優輝も東京五輪代表を決めた。互いに好成績を残し「最後にいとこ同士で笑って写真でも撮りたい」と大樹はメダルへ闘志をたぎらせる。

 第9回全日本少年大会で、FC浦和が初優勝した時のメンバーでもある内舘が、いかにも浦和人らしいいかしたエールを送った。

「浦和の出身ですからね、五輪でも浦和を背負って戦ってほしい」

“メイド・イン・ウラワ”。そう、橋岡はサッカーの街が無尽蔵に育ててきた才能のひとりなのだ。(文中敬称略)

取材・文●河野 正(フリーライター)

※サッカーダイジェスト2021年7月22日号から転載。

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