国際サッカー連盟(FIFA)が25日、公式サイト『FIFA.com』で元日本代表MF中田英寿氏の特集動画を公開した。全編英語で行われたインタビューを用いた動画に、現在行っている日本酒関連の映像など、6分半ほどに渡る動画が公開されている。


「自分のことを一度たりとも良い選手だと考えたことはなかったです。いつも自分は普通の人間、普通の選手だと考えていたし、だからこそ(人より)成長し、練習する必要があったし、行動しなくてはならなかった。それが私の哲学です」。冒頭でそう語った中田氏を、FIFAは母国だけでなくアジア全体の“象徴”と紹介した。


「20、30年前の日本では野球の存在がものすごく大きいものでした。サッカーはちょうど始まったところ、という感じで。ですからヒーローやドリームチームといったものはありませんでした。なんにも知らなかったから。キャプテン翼という漫画があって、それを読んだときにサッカーを心から好きになりました。本当のことを言うと、当時は野球をやるか、サッカーをやるか悩んでいたのですが、サッカーを選びました」


「14、15歳くらいの時からに日本代表としてU−15、U−17、U−19、と国際試合を戦いました。その時に日本の外のサッカーを知り始め、同時にそれが夢になっていきました。しかし(海外でのプレーという夢は)なかなかそのチャンスは訪れませんでした。なぜなら世界の人々はわざわざJリーグを見ませんから」


「やっとチャンスを掴めたのは1998年にフランスでのワールドカップ(W杯)に出場できたおかげでした。夢の1つが叶いましたね。日本にとって初めてのW杯だったので、おかしくなりそうでした。フランスでの開催にも関わらず、スタジアムの半分かそれ以上が日本を応援していて、アウェイというよりはホームでやっているようでした。彼らの存在は私たちにとって大きかったです。もちろんプレッシャーはありましたけど、同時に私たちはW杯について無知でもありました。情報を持ち過ぎないことは時に良いプレーするのに役立つのです」


 中田氏の才能はW杯でついに日の目を見ることになり、ペルージャへの移籍を果たすことになる。「今では多くの日本人選手を世界中で見ることができますが、私の時代には誰もいませんでした。なのでヨーロッパでプレーすることは日本人にとって夢のようなことでした。実際にはフランスやイングランドからもオファーがありました。しかしなぜだか分かりませんが、セリエAこそがサッカーだと思ったのです。実のところ、私が小さい頃に初めて着たユニフォームはインテルかミランのものでした。なので自分にとってヨーロッパサッカーとはセリエAそのものでした。ですからペルージャからオファーを貰ったとき、イエスと答えたのです。その後ローマに移籍したのですが、プレッシャーは半端なかったです(笑)」


 日本の象徴でありアイドルの中田氏は自国で開催されたW杯で国民の期待を一身に背負うことになる。「自分の国でW杯に出場できるのは世界でもほんの一握りの選手だけだと思います。2002年の時でも日本の外でプレーする選手はほとんどおらず、経験のある選手として自分がこのチームを引っ張っていかなくてはならない、という感覚がありました。自分がチームメイトに自信を持たせたり、リラックスさせたりという役割を担うんだと思っていました。こういった責任を負うのは少し難しい部分もありました」 


2006年にはアジア最高の選手の1人として活躍するなか、29歳にしてキャリアに終止符を打った。現在では日本の文化を発信をする傍ら、自分の酒蔵を経営している。「3年間ほど世界中を見て回って、ここまで100カ国以上に行きました。いろいろな事を学び、様々な人に会うなかで、1つ気づいた事がありました。日本についてなにも知らない、と。なので7年間をかけて47の都道府県を見て回りました。ただ現代の生活を学ぶために」


「現在は職人さん、酒蔵の方、農家の方などと働いて、彼らの文化を世界に広める活動や、たくさんの選択肢を持てるような、その人が人生を楽しめるような教育活動をここ数年でやっています」


「サッカーを離れるとき、そこに若い、衰えた、は関係ありません。常に痛みを伴う非常に難しい決断です。決して簡単なことではないのです」


 中田氏の過去から現在までを特集した映像には「アジア史上最高の選手、クウェートからこんにちは」「ペルージャのほぼ全試合を見ていた理由はナカタだった」「ナカタのおかげでアジアは世界中からリスペクトされるようになった、アリガトウ!」「ユヴェントスの悪夢」といったコメントが寄せられている。