「空白の一日」に江川と契約の巨人がボイコット

毎年、悲喜こもごものドラマが展開されるプロ野球ドラフト会議だが、1978年はドラフト史上、最も世間を騒がせた年だろう。

作新学院高時代に阪急の1位指名を拒否して法政大に進学した江川卓が、前年1977年ドラフトではクラウンライターの1位指名を拒否。アメリカに野球留学して迎えた1978年のドラフト前日、巨人と電撃契約したことを発表した。当時の野球協約では、ドラフト会議で交渉権を得た球団は「翌年のドラフト会議前々日まで交渉できる」と定めていたため、協約の盲点をついて、いわゆる「空白の一日」に契約を結んだ。

当然ながら各球団の猛反発を招いた結果、契約は無効とされ、有効を主張する巨人はドラフト会議をボイコット。11球団で開かれた会議で、江川には南海、阪神、ロッテ、近鉄の4球団が競合し、抽選で阪神が交渉権を獲得した。

他にも住友金属の右腕・森繁和も西武、中日、日本ハム、ヤクルトの4球団、日本鋼管の左腕・木田勇には大洋、広島、阪急の3球団が競合。出席した全11球団がくじを引くことになった。

1978年ドラフト1巡目指名選手の成績


外れ1位も含め、各球団1巡目指名選手のプロ入り後の成績を振り返る。

阪神が江川の交渉権獲得も小林繁と交換トレード

南海は江川を外し、国士舘大・高柳秀樹を指名した。1986年には11本塁打を放つなど晩年の南海を支え、ダイエーに球団譲渡されてからも活躍。1991年に引退するまで通算592試合出場で286安打、48本塁打の成績を残した。

江川卓を引き当てたのは阪神だった。しかし、事態を収拾するために当時のコミッショナーが出した「強い要望」により、いったん阪神と契約してから巨人・小林繁との交換トレードというウルトラCで決着。江川は阪神のユニフォームに袖を通すことはないまま、巨人のエースとしてプレーし、1987年に引退するまで通算135勝72敗3セーブの成績を残した。

ちなみに1979年2月のキャンプイン前日にトレード通告された小林は、同年に巨人戦8連勝を含む22勝をマークして最多勝に輝いている。

住友金属・森繁和を引き当てたのは西武だった。駒澤大時代にロッテの1位指名を拒否して社会人野球に進んだ右腕は、2年目から3年連続2桁勝利をマークするなど通算57勝62敗82セーブをマーク。1988年に引退後は各球団のコーチを歴任し、2016年から3シーズン、中日の監督を務めた。

中日は明治大の右腕・高橋三千丈を指名。1984年に引退するまで通算60試合登板で6勝6敗2セーブだった。

ロッテは福間納、日本ハムは高代延博、木田勇は広島拒否

ロッテは江川を外して松下電器の左腕・福間納を指名。阪神移籍後に中継ぎとして活躍し、1985年には58試合に登板して8勝を挙げ、21年ぶりリーグ優勝に貢献した。通算451試合登板で22勝21敗9セーブの成績を残し、1990年に引退した。

大洋は日本鋼管・木田勇を外して勝山高(大阪)の左腕・高本昇一を指名。しかし、一軍登板を果たせないまま1981年オフに戦力外となった。

日本ハムは森を外して東芝のショート・高代延博を指名。広島に移籍した1989年オフに引退するまで917試合出場で772安打、57本塁打の成績を残した。

広島は都市対抗で準優勝した日本鋼管の左腕・木田勇を引き当てたが、本人が入団を拒否。翌1979年ドラフトでも巨人、日本ハム、大洋の3球団が競合し、日本ハム入りしている。

阪急は関口朋幸、落合博満がロッテ3位

近鉄は江川を外し、神戸製鋼の右腕・登記欣也を指名。一軍では1試合の登板にとどまり、白星を挙げることはできないままユニフォームを脱いだ。

阪急は木田を外して吉田商高(山梨)の右腕・関口朋幸を指名。球団名がオリックスになった後の1990年に引退するまで、通算12勝15敗13セーブだった。

ヤクルトは森を外して北海道拓殖銀行の左腕・原田末記を指名。1年目に4試合に登板したが結局、未勝利のまま1982年に引退した。

江川や森、福間、高代ら長く活躍した選手も多い半面、結果を残せず早々にユニフォームを脱いだ選手もいる1978年組。2巡目以下では本荘高・工藤幹夫が日本ハム2位、社高・森脇浩司が近鉄2位、豊見城高・石嶺和彦が阪急2位、東芝府中・落合博満がロッテ3位で入団している。

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