阪神の永久欠番は3つ

プロ野球の各球団には偉大な功績を残した選手を称えて永久欠番に認定された背番号がある。阪神なら藤村富美男氏の「10」、村山実氏の「11」、吉田義男氏の「23」の3つの番号が認定されているが、永久欠番ではなくても大切に扱われる背番号もある。

歴代の主力打者やエース級の投手が背負う番号には、各球団で特有の重みがあり、単なる数字ではない。阪神では掛布雅之氏が背負った「31」や田淵幸一氏が背負った「22」もそのひとつだろう。歴代の主な背番号22を紹介する。 

田宮謙次郎:1952〜58年

1949年に投手として入団した田宮謙次郎は、背番号も28➝6➝22と変更。初めて「22」を背負った1952年に94試合出場して7本塁打を放ち、野手専念の足掛かりとなった(同年は投手としても5試合に登板)。

1955年にはオールスターに初出場し、1957年に打率.308、37盗塁をマーク、1958年には打率.320で首位打者に輝いた。同年オフに大毎に移籍。通算1427安打、106本塁打をマークした強打者だった。

引退後は中日のコーチや東映の監督などを務め、阪神のOB会長時代は歯に衣着せぬ発言で親しまれた。

田淵幸一:1969〜78年

田宮の移籍後は古川啓三、室山皓之助、谷本稔、西村公一を経て、1969年から背負ったのが田淵幸一だ。

法政大時代に山本浩二、富田勝とともに「法政三羽烏」と呼ばれ、東京六大学新記録の通算22本塁打をマーク。ドラフト1位で阪神入りすると、1年目に背番号と同じ22本塁打を放って新人王に輝いた。昨年、佐藤輝明が24本塁打を放つまで、球団の新人記録だった。

同じ時代に巨人・王貞治がいたためタイトルに届かないシーズンが続いたが、1975年に43本塁打を放って13年連続ホームランキングだった王を上回って初タイトルを獲得。1978年オフにクラウンライターの真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史の4人と田淵・古沢憲司の2人による大型トレードで移籍するまで、阪神在籍10年間で320本塁打をマークした。

西武時代の1984年に引退するまで通算1532安打、474本塁打、1135打点の成績を残した。引退後はダイエーの監督や阪神、楽天、北京五輪日本代表などでコーチを歴任している。

木戸克彦:1983〜96年

田淵の移籍後は4年間空き番となっていた背番号22を受け継いだのが木戸克彦だ。PL学園高時代に夏の甲子園で優勝し、法政大からドラフト1位で入団。巧みなリードと勝負強い打撃で1996年に引退するまで「22」を背負い続けた。

通算965試合出場、505安打、51本塁打、226打点。引退後は阪神でバッテリーコーチや二軍監督などを歴任し、2017年に侍ジャパン女子代表ヘッドコーチに就任した。

中谷仁:1998〜2001年

木戸の引退翌年に1シーズンだけ「22」を背負った関川浩一が中日に移籍し、1998年から受け継いだのが中谷仁だった。智弁和歌山高の主将として全国制覇し、ドラフト1位で阪神に入団。しかし、一軍では17試合に出場しだだけで、2005年オフに金銭トレードで楽天へ移籍した。

2009年には自己最多の55試合に出場。巨人に移籍した2012年に引退した。引退後は巨人のブルペン捕手などを経て、現在は母校・智弁和歌山の監督を務めている。

藤川球児:2005〜12、17〜20年

中谷の移籍後、喜田剛、キンケードを経て2005年から藤川球児が受け継いだ。

高知商からドラフト1位で入団した当初は「30」、その後自身の名前にちなんで「92」に変更していたが、セットアッパーに転向した2005年は「22」を背負って80試合に登板して優勝に貢献。2007年と2011年には最多セーブに輝くなど、「火の玉ストレート」と呼ばれた剛速球で強打者をなで斬りにした。

メジャーに移籍している間は、クローザーの呉昇桓が「22」を背負ったが、藤川が阪神に復帰後は「18」を経て「22」に戻した。2020年に引退するまで日米通算245セーブ。名球会入り条件にはあと5セーブ届かなかったが、球史に残る名クローザーだった。

藤川の引退後は空き番となっている阪神の背番号22。次に背負うのは剛腕のクローザーか、あるいは強打の捕手か。背番号に恥じない選手の出現を楽しみに待ちたい。

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