「平安愛」貫く甲子園通算30勝の名将

龍谷大平安高野球部の歩みは、聖地の歴史とシンクロしている。平安中時代の1927年(昭和2)選手権が甲子園初出場。平安高、龍谷大平安高と名前を変えながら、春41回、夏34回と、全国最多を誇る75回も球児の憧れに記憶を刻んできた。

名門の足跡を振り返る時、原田英彦監督(62)の存在は絶対に欠かせない。自称「日本一の平安ファン」。中学時代から白いシャツに「HEIAN」と書くほど憧れ、念願叶ってユニホームに袖を通した3年間は、ついに甲子園と縁がなかった。

卒業後、社会人野球の日本新薬で現役を続け、母校の再建を託され監督に就任したのが1993年(平5)。甲子園通算30勝の実績と、熱いキャラクター、そして「平安愛」で、今や名物監督の一人となった。

2013年センバツ初戦敗退直後に…

今も忘れられない言葉がある。2014年1月の選抜出場校決定日。記者は春の吉報を待つ同高取材のため、底冷えの古都にいた。前年秋の近畿大会覇者。出場はほぼ確実で、当落とは無縁のリラックスムードが漂う中、指揮官は何人かの報道陣との雑談に応じていた。

話の流れで、監督自ら切り出したのが、前年13年の選抜に出場した時のエピソードだった。初戦の早実戦で2―4の逆転負け。「事件」は、試合後、グラウンドを引き揚げる時に起きた。

ファンの一人が「原田、お前じゃ勝てんからやめろ」と心ないヤジを飛ばしたのだ。当時のチームは、2009、11、12年と選手権に出場しながら、3大会でわずか1勝。自身がだれよりも全国の「壁」を痛感していただけに、最も痛いところをつかれ、思わず我を失った。「応戦」しかけたところを関係者に止められ、あわやの場面は回避。後味の悪さとともに、グラウンドを後にした。

「腹立ったんですけど、よく考えたら、平安には、こうやって一生懸命、応援してくれるOBやファンが一杯いる。そういう人たちのためにも、日本一を目指します」

正直に明かすと、日本一の言葉は、記者の耳には単なるスローガンとして響いていた。リアルな目標としての像を結ばない中、龍谷大平安は大島、八戸学院光星と撃破し、ターニングポイントの準々決勝・桐生第一戦を迎える。

2回までに4点のビハインド。ただ、原田監督の気迫と執念がナインに乗り移り、次第に相手を追いつめていく。2、3回と1点ずつ返し、7回には盗塁、敵失を絡め、ヒット1本で追いついた。延長10回のフィナーレはサヨナラ暴投。中学生だった原田少年が甲子園で観戦した時以来、40年ぶりのベスト4進出を勝ち取った。

勢いと、時の運を味方につけたチームは、決勝で履正社との「近畿決戦」を制し、選抜初優勝。有言実行の闘将は男になった。

藤川球児に投げ勝った川口知哉

その後も16年春がベスト4、19年春がベスト8と躍進し、龍谷大平安のネーミングが定着する中、平安高時代の名勝負も挙げておきたい。

好投手の川口知哉(後にオリックス)を擁した97年夏は、準優勝に輝いた。注目は2回戦の高知商戦。被安打2、11三振を奪う完封劇で、あの藤川球児(後に阪神)に投げ勝った。

川口は高校生らしからぬ大胆な発言でも話題に。「次の試合では、完全試合を目標にします」etc…。投球内容と同じ不敵な言葉は、優等生コメントが主流の当時では新鮮だった。

同じく平安の左投手といえば、90年夏に出場した時の2年生エース、西村基治も印象深い。3回戦の丸亀戦は第4試合。雨とカクテル光線が舞台を演出する中で、小柄な左腕は黙々と、そして1球1球丁寧にボールを投げ込んだ。

決着は両軍で26個の「0」を並べた延長14回表。西村が投じた199球目が右翼フェンス直撃の決勝適時打となった。悲運のサウスポーの息子、王雅は智弁学園の主戦として昨年夏に甲子園出場。決勝で智弁和歌山に敗れ、日本一こそ逃したものの、同じ左腕で、父譲りの小気味いい投球はオールドファンを喜ばせた。

間もなく始まる選手権の地方大会。龍谷大平安ナインの視界には18年以来、4年ぶりの甲子園切符しか映っていない。胸に書かれた「HEIAN」のロゴも、浜風を欲している。

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