お荷物球団だった黎明期

2022年のプロ野球は、オリックス・バファローズの26年ぶりの日本一で幕を閉じた。そのオリックスと日本シリーズを戦ったヤクルトでは、内川聖一、嶋基宏、坂口智隆のベテラン3人が現役を引退。特に、坂口は近鉄に在籍したことのある最後の選手だった。

これで、近鉄時代を知る現役選手はゼロとなったが、その歴史は忘れ去られることはないだろう。今回は2004年に球団が消滅した近鉄球団について、個性派ぞろいの猛牛戦士たちを率いてきた歴代監督を振り返る。

近鉄の歴代監督"


近鉄は現在の2リーグ制となった1950年に、「近鉄パールス」として新しくパ・リーグに所属する球団として誕生。初代監督には藤田省三が就任した。藤田はそれまで法政大学で指揮を執っていたため、関根潤三ら東京六大学出身の選手で編成。しかし選手層は薄く、1年目は首位から37.5ゲーム差の最下位に終わる。

翌51年は6位の東急にわずか0.5ゲーム及ばず最下位。3年目も30勝78敗と3割に満たない勝率(.278)で、3年連続の最下位に終わった。シーズン終了後には不振の責任を取り、藤田監督が辞任。後任として芥田武夫が監督に就任した。

芥田政権1年目の1953年は最下位にこそ終わるが、48勝69敗3分けで勝率が初めて4割を超えた。翌54年には74勝63敗5分けで勝率5割超えを果たし、Aクラスの4位に入り、初の最下位脱出に成功した。だが、毎年Aクラスに入れるような地力はなく、翌年から2年連続の5位。57年シーズン途中には芥田監督が休養となり、加藤春雄が代行を務めた。チームは最終的に6位に終わっている。

1958年は前年に監督代行を務めた加藤春雄が久幸に改名して、正式に監督へ就任。しかし、球団史上ワーストの勝率.238(29勝97敗4分け)の最下位に沈み、シーズン終了後に辞任した。

三原脩監督の下、初の2位と躍進

1959年、後任として巨人の名二塁手だった千葉茂を監督に招聘。千葉が現役時代に“猛牛”の異名をとったこともあり、球団名も「近鉄バファロー」に改め再出発を図ったが、あえなく最下位に終わる。翌60年も最下位に沈むと、61年にはシーズン最多記録となる103敗を喫し、シーズン終了後に千葉監督は更迭された。

1962年、別当薫が監督に就任。球団名を「バファロー」から「バファローズ」と複数形に変更したが、5年連続の最下位に終わる。翌年は3位の東映と1ゲーム差の4位と健闘するも、64年は再び最下位に沈み、シーズン終了後に別当は辞任。後任には「初代トリプルスリー」の岩本義行が就任するがチームは上向かず。岩本は2年連続最下位に終わり、66年シーズン限りで辞任した。

1967年、小玉明利が選手兼任で監督に就任。近鉄初期からチームを知る小玉は低迷を脱する切り札として指揮官に抜擢されたが、4年連続の最下位。オフに小玉は監督を辞任し、選手としても阪神へ移籍した。

1968年、大洋を退団したばかりの三原脩を監督に招聘。大洋時代と同様に序盤から首位争いを演じた。最終的には4位に終わるが、4年連続最下位から脱することに成功。翌年には阪急との優勝争いをシーズン最終盤まで繰り広げたが、惜しくも2位に終わった。オフには甲子園のアイドル・太田幸司が加入。三原政権3年目は悲願の初優勝が期待されたが3位におわり、シーズン終了後に三原監督は退任となった。

1971年、三原の後任としてコーチの岩本堯が監督に昇格。1年目から3位に入ると、2年目には2位と連続Aクラス入りを果たす。迎えた3年目の1973年、前後期の2シーズン制が導入されたこの年、優勝候補の筆頭にも挙げられる中、シーズンに臨むも序盤から低迷。8月には岩本が休養となり、島田光二が代理監督を務める事態となった。岩本はそのまま退任し、チームは前後期ともに最下位に終わっている。

西本幸雄が悲願の初優勝も…日本一にはなれず

1974年、阪急に黄金時代をもたらした名将・西本幸雄が監督に就任する。1年目こそ5位に終わったが、佐々木恭介、栗橋茂、羽田耕一ら後のチームの主力となる若手を鍛え上げた。翌年、その成果が早くも表れ、初の後期優勝を飾る。プレーオフで阪急に敗れたため、年度優勝とはならなかった。

77年は4位、78年は2位となって迎えた79年。前期に優勝を果たすと、後期優勝の阪急と再び戦ったプレーオフで3連勝し、球団創設30年目にして悲願の初優勝を成し遂げた。広島との日本シリーズでは第7戦までもつれるも、江夏豊に一打逆転サヨナラの好機を阻まれ(江夏の21球)、日本一はならなかった。

翌80年もリーグ優勝を果たすが、再び日本シリーズで広島に3勝4敗で敗れている。西本は81年も指揮を執るが、シーズン最下位に終わり監督を辞任した。

1982年、西本の後任として関口清治が監督に就任。1年目は大石大二郎ら若手を抜擢し、シーズン3位に入ったが、翌83年は4位に終わり、この年限りで監督を辞任した。

1984年からは蔭山和夫、飯田徳治、木塚忠助と共に100万ドルの内野陣と呼ばれ、南海の黄金時代を担った岡本伊三美が4年間指揮を執った。84年4位、85年3位、86年2位と徐々に順位を上げていったが、4年目は最下位に終わり監督を辞任している。

10.19に代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打、そして球団消滅

1988年、岡本の後を受けて前年コーチを務めていた仰木彬が監督に就任。この年、黄金時代を築いていた西武とデッドヒートを繰り広げ、10月19日、ロッテとの最終戦ダブルヘッダーで連勝すれば優勝できるところまでこぎつけた。第1試合に勝利し、迎えた第2試合。延長10回時間切れにより4−4の引き分けに終わり、130試合目にして優勝を逃した。この戦いは10.19として今も語り継がれている。

しかし、翌89年に雪辱を果たし、9年ぶり3度目のリーグ優勝を達成した。日本シリーズでは巨人と対戦。初戦から3連勝し初の日本一に王手をかけるも、そこから4連敗。またしても日本一を逃した。仰木監督はその後92年まで指揮を執るも優勝には手が届かず、この年限りで辞任。後任には鈴木啓示が就任した。

1993年、小玉明利以来26年ぶりの生え抜き監督となった鈴木だったが、初年度は4位に終わる。翌94年は3位に入るもオフに主戦投手の野茂英雄がメジャーへ移籍。95年はチームが低迷したため、鈴木は途中休養を余儀なくされ、チームも8年ぶりの最下位に沈んだ。

1996年からは佐々木恭介が監督に就任したが、初年度は4位に終わる。翌年、本拠地を藤井寺球場から大阪ドームに移転。ドーム元年にチームは3位Aクラス入りを果たしたが、翌98年は5位、地元密着を目指して「大阪近鉄バファローズ」に改称した99年は4年ぶりの最下位に終わり、シーズン終了後に佐々木監督は辞任した。

2000年、梨田昌孝が監督に就任したが、球団33年ぶりの2年連続最下位に沈んだ。迎えた01年、劇的なリーグ優勝を飾る。中村紀洋、タフィ・ローズら「いてまえ打線」が211本塁打と爆発。最後は北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁本塁打で、4度目の優勝を決めた。だが、日本シリーズではヤクルトに敗れ、日本一はならず。04年にオリックスと合併する形で球団は消滅。梨田が近鉄最後の監督となった。

1950年から2004年まで55年間、パ・リーグの中では、最も長期間にわたって球団を保持していた近鉄。日本一には最後まで手が届かなかったが、パ・リーグ、日本シリーズで繰り広げた数々の名勝負は、今も人々の記憶に刻みこまれている。

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