『豊饒の海』は、三島由紀夫最後の長編小説で、「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」という四部構成になっている大作だ。そして三島はこの小説を書き上げたその日に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自殺を遂げている。美しい主人公が各部ごとに早世し、次の部で蘇るという「夢と転生の物語」はロマンティックさの中に、三島自身の生き様、貫いた美学が力強く描かれている。

そんな壮大な物語が舞台化され、いよいよ今週末より上演される。三島の理想の人物と思われる美しく誇り高い主人公・松枝清顕を演じるのは東出昌大。2015年に『夜想曲集』で初舞台を踏んで以来、3年ぶり2回目の舞台出演となる。本番迫る中、その稽古場を取材した。

演出はロンドンのオールドヴィック・シアターのアソシエイト・ディレクターという肩書を持ち、新進気鋭の若手演出家として注目を集めるマックス・ウェブスター。2015年に上演された『メアリー・ステュアート』以来、3年ぶりに日本で演出を手掛ける。通し稽古が始まる前にウェブスターが一言、「みなさん楽しみましょう!」と声をかけると、キャスト・スタッフともに緊張感の中にもリラックスした表情が浮かんだように見えた。

長田育恵による脚本は、四部作を同時進行させる形を取っている。清顕とその親友である本多繁邦、清顕の幼馴染であり特別な存在である綾倉聡子を中心に描かれた第一部「春の雪」から始まり、時間軸を行ったり来たりしながら他の三部の話が絡み合っていく。この四部作を通して転生してゆく清顕を追い続ける本多を、青年期・中年期・老年期と分け、それぞれを大鶴佐助、首藤康之、笈田ヨシが演じており、清顕に己の人生を支配された彼の物語が一つの軸として描かれている。

『豊饒の海』稽古場写真

『豊饒の海』稽古場写真

大鶴は、青年期の本多の屈託がなく穏やかな人物像を表現し、複雑な人間関係や感情がもつれあう物語の中で一服の清涼剤のような存在を示す。首藤は、清顕の死を経験して、彼を救うことができなかったという後悔を背負う陰りをたたえている。笈田は、老年となってもなお清顕の影に囚われ翻弄され続ける哀愁を漂わせる。三人による演じ分けで、年齢を経るごとに清顕への執着心、そして清顕への支配欲が強くなる様子もよく伝わってくる。

『豊饒の海』稽古場写真

『豊饒の海』稽古場写真

美しき令嬢・聡子を演じる初音映莉子は、清顕の運命を破滅へと導く魔性の美しさと、一途に恋する熱情を見せる。小説にも描かれている通りの水色の着物が冷たい輝きを放ち、かえってその狂おしい熱さを印象付ける。
清顕と聡子の逢引きのシーンでは、激烈な愛憎美をしなやかな動きで的確に表現しており、このシーンを含め、鮮やかな場面転換など滑らかな動きで作られるシーンが印象的だ。小野寺修二による俳優の身体性を重視したステージングが、時間軸を飛び越えていく物語をスムーズに進行させる。

『豊饒の海』稽古場写真

『豊饒の海』稽古場写真

老年期の本多の前に現れる、清顕の生まれ変わりと思われる青年・透を演じるのは上杉柊平。清顕を思わせる美しい佇まいの中に、卑俗で貪欲な傲慢さをのぞかせる演技から透の残忍さが感じられて思わず背筋が寒くなる。本多と透を近くで見守る本多の友人・慶子を演じる神野三鈴が、明け透けな素振りを見せながら底の見えない謎めいた人物像で今後の展開のスリリングさを予感させる。

『豊饒の海』稽古場写真

『豊饒の海』稽古場写真

青年期の本多の前に現れる勲は、最も三島本人らしさを感じさせる人物でもあり、三島の魂が込められているように感じられる。そんな勲を演じるのは、今年7月に初舞台を踏んだばかりの宮沢氷魚。清潔な存在感の中に、燃え上がる熱き信念が見ているこちらにもヒリヒリと伝わってくるような、勲の真っ直ぐな純粋さが浮かび上がる。

『豊饒の海』稽古場写真

『豊饒の海』稽古場写真

主人公・清顕を演じる東出は、美しく賢明でありながら、己の精神世界という迷宮をさまよう陰りと、それに耐え切れず心が揺れ動き、時に爆発してしまう不安定さを、瞬発力ある演技で見せる。美しさを際立たせるためには容赦なく醜さや汚さも描き、美の危うさを示した上で、それでもなお“美しくあるべきだ”という三島が貫いた美学をそのまま体現しているように思えた。

この日は前半の通し稽古を取材したが、ここから後半に向かって、清顕をはじめとした登場人物たちがどのようなクライマックスを迎えるのか、膨大な小説をどのような一つの舞台作品にまとめあげるのか、三島の思い描いた“美”をどのような演出で見せてくれるのか、と想像が膨らんだ。美しいだけではない、人間の愚かさや欺瞞をも暴く三島最後の小説、その世界を旅するような観劇体験に期待したい。

取材・文・撮影=久田絢子