2017年の日本音楽コンクールピアノ部門で最年少優勝を果たした次世代のホープ吉見友貴。昨年秋のトッパンホールでのリサイタルに継ぐ東京での二回目の単独公演が、2020年7月23日(木)、浜離宮朝日ホールで開催された。

梅雨の明けきらない小雨模様の午後。会場はソーシャルディスタンスを厳守すべく収容人数を半分以下に抑え、来場者のチケットへの連絡先記入、終演後のアンコール曲目掲示や演奏者との接触も禁止と、徹底した感染防止対策の中での開催となった。

会場に集う人々は、薄曇りの天候やニューノーマルな鑑賞スタイルにも臆することなく、客席全体が熱気にあふれていた。ここ数ヵ月、多くのコンサートやオペラなどが中止となった中で、四連休の初日に若きホープの演奏会が実現するとなれば、いやがうえにも期待が高まる。

実のところ、今回は東京公演の他にも、愛知、大阪、高知の3都市でも演奏会開催が予定されていた。しかし、県外へのツアー移動が困難なため、地方公演はすべてキャンセル。この日の演奏会が唯一実現した。本来なら、吉見にとっては、念願の初の国内4都市ツアーとなるはずだったのだ。

そんな中、東京公演の後日ストリーミング配信が決定。地方公演を楽しみにしていた全国のファンも演奏会の模様を視聴可能になったのは何とも嬉しい。本番数日前に吉見に話を聞いたが、そんな経緯ゆえか、この日の公演にかける思いはいつも以上のものに感じられた。(インタビューは関連記事参照)

当初から、この4都市ツアーにかける吉見の意気込みは凄まじかった。通常、コンサートでは、得てしてマイナーで渋めの曲を選びがちという吉見だが、今回は最も敬愛する作曲家ベートーヴェンの傑作を前半に置き、後半は究極のロシア・ピアニズムを聴かせる “王道” プログラムで初国内ツアーへの気迫を込めたのだという。

大曲にいくつかの珠玉の小品を効果的にラインアップしたのも、これらの “名曲” をより聴き手の心の中に深く刻み込みたいという思いがあったからだ。

この日のプログラム前半のメインは、名曲中の名曲ベートーヴェンのソナタ第21番 “ワルトシュタイン”。吉見曰く、「大舞台で挑戦してみたかった作品」という。“ワルトシュタイン” の前に置かれた冒頭の一曲は、同じくベートーヴェンのアンダンテ・ファヴォーリ。ベートーヴェン自身が “お気に入り(ファヴォーリ)” と題したこの作品は、吉見にとっても大好きな一曲だ。当初、ベートーヴェンはこの曲をソナタ “ワルトシュタイン” の第二楽章として構想していたが、最終的に独立した一曲に改めたというエピソードがある。まさに、続いて演奏される “ワルトシュタイン” とはベストなカップリングだ。

開演時間が過ぎて客席に一瞬の緊張感が走る。誰もが、吉見が登場するのを今か今かと待ちわびている様子だ。さっそうと胸を張って風を切るように登場した吉見。立ち姿がスラリとしてカッコいい。気負いのない晴れやかな笑顔。しかし、この演奏会にかける強い意気込みと自信が空気感として伝わってきた。

椅子に座ると、集中力を高めるため、しばしの沈黙が続く。手を握りしめ、自分の世界へと入ってゆく姿が見てとれる。

『吉見友貴ピアノ・リサイタル2020【live streaming】』

『吉見友貴ピアノ・リサイタル2020【live streaming】』

一曲目のアンダンテ・ファヴォーリでは、牧歌的なメロディーと調和した和声の響きが研ぎ澄まされた空間に冴えわたる。左手の流れるような低音部と、右手の鮮やかなスタッカートや軽やかなオクターブ連打の絶妙なバランス。吉見の操る精彩な絵筆が、ベートーヴェンのたおやかな詞(ことば)のかたちを連綿と描きだしてゆく。

続いて待望のソナタ “ワルトシュタイン”。作曲当時は“前衛的”とみなされた複雑な技巧や音楽的要素がいかんなく駆使されたこの野心的な大曲に吉見がどう挑むか――。アンダンテ・ファヴォーリで、冴えわたる技巧と品格ある様式感で完璧なまでにベートーヴェンの世界観を体現しただけに期待も膨らむ。

冒頭から一糸乱れぬクリアな音で“ハ長調”という調性のみが表現し得る鮮やかな音の世界へと聴き手を誘う。移ろいゆく三連符や速いパッセージの連続も、混沌としたロマン派的な “あいまいさ” を絶妙に暗示させながら、明確に理路整然と色付けしてゆく。

そして、何よりも細やかで精緻なダイナミクス(強弱表現)の巧みさが吉見の真骨頂だ。若干20歳にして巨匠的な風格すら感じさせる吉見の雄弁な演奏は、このような一つひとつの細やかな語法(詞の表現の使い方)の丹念な積み重ねによるものなのだとつくづく感じさせられた。

ベートーヴェンの楽曲を分析するのがライフワークという吉見だが、形式的な理解はもとより、作品が醸しだす詩的・文脈的なものへの鋭い感覚や、深い洞察力がベートーヴェンの詩情を生き生きとよみがえらせているのだと思わずにはいられない。

最終楽章のクライマックス。民謡を思わせるあの有名なテーマが、堂々たるバリエーションを湛えつつ、流れるように一気にフィナーレへ。難聴に苦悩しながらも、若きベートーヴェンの充実した日々の喜びが投影されたともいわれる希望に満ちた輝かしい幕切れ――作曲家とピアニストの思いが共鳴し合う瞬間に、私たち聴衆もあたたかな喜びに包まれる。吉見の真摯な思いが伝わる快いグランドフィナーレだった。

ちなみに、この曲を作曲した頃、ベートーヴェンは大スポンサーであるワルトシュタイン伯爵から当時最新のピアノ(エラール製といわれる)を贈られている。そして、それまでのウィーン式のピアノのメカニズムでは実現できなかった、より高度な技巧をこの曲で実現した。

ベートーヴェンがモダンなピアノに出合って憶えた革新への目覚めや喜び――。吉見はそんな希望に満ちた音の世界を現代のフルコンサートピアノの響きの中に大いに再現しようと心がけていたように感じられる。後日配信されるストリーミングでは、そんな吉見の職人的な一面も至近距離から肉薄できるに違いない。

『吉見友貴ピアノ・リサイタル2020【live streaming】』

『吉見友貴ピアノ・リサイタル2020【live streaming】』

15分の休憩を挟んでの後半はオール ロシア・プログラム。「フランス、ドイツ的なものとは一味違う抒情性とピアニズムに憧れる」という吉見が満を持して構成した曲目は、ラフマニノフの前奏曲第6番、スクリャービンのワルツOp38、同じくスクリャービンの8つのエチュード(練習曲)Op42-5、そして最後にラフマニノフのソナタ第2番だ。

ラフマニノフの前奏曲と、続いて演奏されたスクリャービンのワルツ。二曲とも感傷やサロン的小品特有の退廃的な甘さに溺れることなく、終始インテンポで(一定の速度で)理知的に弾き切った。削ぎ落とされた美しさが余韻のごとく心に響く。何とも心憎い演奏だ。

スクリャービンのワルツでは、「三拍子の曲が大好き」というだけあって、整然とした曲作りの中にも、吉見らしい渋めの紳士的な優雅さを漂わせていた。

「背伸びした大人を演じたくない」と事前のインタビューで話してくれたが、真摯な等身大の曲作りでしっとりとした大人の色気を感じさせてくれたことに思わず感動してしまった。吉見の場合、等身大と言えども、やはり普通の20歳とはどこか違う。

同じくスクリャービンの練習曲Op.42-5では、ひたすら華麗なテクニックに酔いしれる。この曲が高度な技巧を駆使した“練習曲”なのだということを真に実感させられる、スリリングで完璧な演奏に度肝を抜かれることだろう。ストリーミング配信では、ぜひともその醍醐味を至近距離から味わってほしい。

後半最後は演奏会を締めくくるにふさわしい大曲、ラフマニノフのソナタ第2番。豊かな詩情を前面に出しつつも、ラフマニノフのもう一つの魅力でもあるモダニズムあふれる洗練とともにスタイリッシュに謳いあげてゆく。そのニヒルなまでの徹底したスタイルの完璧さに脱帽する。

最終(第三)楽章。後半のプログラムでは、ここまで比較的テンポの揺れも最小にとどめ、内なる感情や緻密なダイナミクスで聴衆をグイグイ引き込んでいたが、この楽章では、巧みなテンポの緩急の駆け引きで、客席全体をカタルシス的な境地(快感的な高揚)へと誘う。幕切れの華麗なるオクターブの応酬では、これぞ吉見友貴のピアニズム!と叫びたくなるような堂々たる弾き納め。

惜しみない拍手を受け、再びさっそうと舞台に現れる。アンコールピースは、シベリウス作曲 モミの木。抒情的で憂いに満ちたこの珠玉の小品を、今日最もアツい、ほとばしる情熱とメランコリックな艶やかさで一気に聴かせてくれた。本プログラムとはまた一味違う一面がみられるのもアンコールの醍醐味。吉見はしっかりと、その術を心得ていた。

と、そんなことを思っていたら、アンコール演奏後にマイクを持った姿が、20歳らしい若者の姿に戻っていたのが何とも微笑ましく、印象的だった。

「終演後はホワイエで面会禁止になっていますので、今ここで写真撮影をしていいようですよ、是非どうぞ!」と、自らアナウンス。何とも和やかでいい雰囲気が漂う。端正な舞台姿に客席のスマホの画面が一斉に向けられる。

ここでもう一曲アンコール。ブラジル大衆歌謡の名曲ティコ・ティコ・ノ・フバをピアニストのアムランが華麗に編曲した作品だ。アムランらしい超絶技巧の中にもユーモアやコケティッシュな表情を巧みに描きだす。途中、ショパンのエチュードやエリーゼのためのフレーズがパロディで登場したり、最後は完全にラテンのノリで会場の空気感はさらに盛り上がったところで終演。ピアノの蓋を閉めて、拍手の鳴りやまない客席に終わりを告げた。

実はこの演奏会、吉見からのもう一つのプレゼントがある。冒頭でも触れたが、開催中止となった東京以外の公演を楽しみにしていたお客様のためにと、吉見自身が希望し、実現した演奏会の後日ストリーミング配信(7月30日(木)20:00〜8月2日(日)23:59まで)。このオンライン配信のコンテンツでは、当日の本番演奏に加えて、終演後に非公開で収録された30分弱の特典映像がプラスされるというのも嬉しい。

特典映像用にセレクトされた4曲は、どれも軽やかなフランス&ラテンの舞曲(曲目は配信当日まだ秘密とのこと!)。普段着で演奏している姿も実にフレッシュだ。

「本番プログラムが真面目なので、軽やかな舞曲を集めてみました。僕というと、結構フランスものという印象があるみたいで、本プロに入れなかった分、特典映像にしてみました」

軽やかな舞曲も超絶技巧的なものばかりで、吉見らしいセレクト感満載。ピアニスト吉見友貴の、さらに一味違う一面を堪能できる見ごたえある映像に仕上がっている。ぜひお見逃しなく! 配信チケットは、2020年7月29日(水)23:59まで発売中だ。

取材・文: 朝岡久美子