ファースト・フルアルバム『HAYATOSM』(2020年12月23日発売)が発売日オリコンアルバム総合デイリーチャートで8位を記録するなどクラシック音楽ピアニストとして異例の勢いを見せている角野隼斗。2020年は全国ツアーや国際コンクール出場の予定を変更せざるを得ない年となってしまったが、オンラインの配信やライブを通じた角野の活躍と飛躍の勢いは止まらない。12月13日(日)、この年最初で最後のリサイタルが開催された。サントリーホールでの公演だ。16:00から客席50%のリアルコンサート、そして20:00からのオンラインコンサートの連続2公演である。即完売となったリアル公演の模様を中心にレポートする。

開演直前、サントリーホールに響き渡ったシンプルで短い「影アナ」(開演を告げる放送アナウンス)が、角野隼斗本人の声であったことは、この日会場に足を運んだ聴衆はすぐに気付いたはずだ。演奏の前からファンの期待感を高めてくれる演出が心憎い。

客席照明が落ち、いよいよステージに角野が登場した。静かにピアノの前に座り、長い沈黙。そして毅然とした音色でショパンの「英雄ポロネーズ」を弾き始めた。勇ましさの中に、気品も漂う。中間部では緩急のコントラストも鮮やかだ。しかし、どこか緊張感も感じられた。角野にとってこのステージがいかに大切なものであるかが痛切に伝わる。

ショパンが終わると、水を一口飲み、マイクを手にする。「めちゃくちゃ緊張しました」という一声で会場全体の空気がやわらいだ。影アナは「やってみたかったのに声が震えた」という。同時に、「みなさんと同じ空間で音楽を楽しめる幸せを実感できた」と語った。

この日の曲目は、聴衆には事前に明かされていない。12月23日(水)にリリースされたアルバム『HAYATOSM』の初回盤ジャケット写真と同じ表紙のパンフレットには、角野からのメッセージが印刷されている。「楽曲を新鮮な気持ちできいていただきたいという想い」によるものだ。公演終了後、掲載されているQRコードからプログラムを確認できることになっている。

続いてショパンの作品3曲を弾いた。「ノクターン 第13番」の冒頭は、静けさから立ち上る叙情性が際立ち、残響を生かしながらポリフォニックで立体的な演奏を聴かせた。「バラード 第2番」では、弱音のレンジを広げ、グラデーション鮮やかに繊細なコントロールを効かせた。主要主題が現れるたび夢見るような安堵感を与え、第二主題は硬質な音色ですっきりとした軽やかさを持たせる。「木枯しのエチュード」はバラードの余韻の中から序奏を導き出し、右手の下行音型を際立たせるのみに陥らず、バスラインの旋律を鮮やかに浮き立たせた。

そこから軽快で洒脱な「子犬のワルツ」を経て、飼い猫の様子からインスピレーションを得たというオリジナル曲「大猫のワルツ」へ。自作品でひときわ音色が多彩になり、かなり緊張もほぐれたと見えて、中間部のジャジーな世界観とピアニスティックな装飾的音型の鮮やかさに息を飲んだ。

角野隼斗

角野隼斗

「現代を生きる演奏家として、リストのあり方を目指したい」と語る角野。ジャンルを自在に越境するクラシック音楽家としての思いを込めた作品であり、アルバムの1曲目に据えたピアノソナタ 第0番「奏鳴」をここで披露。序奏から音の深みが一段と加わった。身体の脱力を感じさせる低音域の鳴り、弱音のデリケートな美しさ、和声の厚みや内声の蠢きが、鮮やかな音楽的舞台転換を生んでいく。力強いクライマックスが、ステージ上と客席との一体感をさらに強めた。

続くリストの「愛の夢 第3番」は角野のアレンジによるもの。筆者のメモには「愛の夢よりも、もっと愛の夢」とある(なんじゃそりゃ(笑))。説明力が破綻するほど心が震える——そんな体験をさせてもらえるのが、リアルコンサートの醍醐味と言えるのかもしれない。中間部では原曲に近づくが、リズムと和声を複雑化させつつ、さりげなく美しい。たっぷりと残響を聴き届けてから、予定プログラムの最終曲へと入った。

音域ごとのキャラクター特性をはっきりと活かした「ハンガリー狂詩曲 第2番」は、角野自身の脳内で構成されていく音楽が、実際の演奏とますます一致してきた印象。もちろん我々に奏者・角野の脳内は覗けないが、よく精査されコントロールの効いた演奏でありながらも、とめどないエネルギーと勢いの迫力を滲ませる響きが、そう感じさせるのである。そして、角野がこの作品に付けた「カデンツァ」へ。壮絶な音数ながら、常にそこには楽しさがある。生き生きとした自由さがある。客席からの大喝采とスタンディングオベーションが、その熱量に十分に応えようとしていた。

この公演を通じて、筆者の中ではっきりと認識できたことがあった。それは、角野隼斗というアーティストは、その音楽作りの根底というか、発動の根源が“陽性”の音楽家であるということ。叙情的でアンニュイな音色も美しく響かせられるし、おどろおどろしい表現も豊かだ。しかし、その人間性の深いところから、心の芯の部分から発せられる彼の音楽は、どこまでも「喜び」である。音楽のもつ楽しさ、輝きを、徹底してブリリアントに表現できる人なのだ。

彼は間違いなく、真の意味で、現代に蘇るヴィルトゥオーゾである。超絶技巧を持ち合わせ、即興演奏や自作品で人の心を掴むことができる。19世紀に姿を現したヴィルトゥオーゾのパガニーニはしかし「悪魔に魂を売った」などと言われた。リストの超絶的な妙義もしばしば「悪魔的」などというフレーズで称賛された。あまりに超人的なものに触れると人は、畏怖を覚えるがゆえに、そうした“陰性”の表現を用いるが、どこか彼らの演奏や音楽に、そうした闇の持つ魅力のような一面があるのだと思う。

角野の音楽は、人間の喜びであり、人間の明るさの所産である。そのことをさらに強く感じさせてくれたのが、アンコールで演奏したモーツァルトの「ピアノ・ソナタ ハ長調 K.545」と、そこに即興的に織り交ぜた「きらきら星変奏曲」の楽しい遊びである。さらには、「英雄ポロネーズ」の中間部や、短調から長調へと変えられた「木枯らしのエチュード」の音型も「きらきら星」に変えられて、モーツァルトの天真爛漫な“陽性”の音楽へと見事に織り込まれていく。なんという妙義。なんという喜び。その輝かしさの尊さに、涙した聴衆も少なくないだろう。

「2年4ヶ月前、『特級』ファイナルで、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を演奏したことが、音楽家の道を歩むことになった第一歩でした。ソロリサイタルで、サントリーホールに戻って来られたことを嬉しく思います」(2018年ピティナ・ピアノコンペティションにて角野は特級グランプリを受賞した)と告げ、同協奏曲第2楽章のピアノソロ版でしっとりと締め括った。オーケストラ・パートもまるでヴォカリーズのように歌心に溢れ、会場の集中度もクライマックスを迎えた瞬間だった。

85分間で、サントリーホールを完全に「自分の空間」に変えた角野。その空間は、さらに2時間後、ネットを通じて限りなく膨張していった。

角野隼斗

角野隼斗

あまりにリアル公演のレポートが長くなったので、多くの視聴者がご覧になれた20:00公演については、ざっくりとお伝えしたい。

ストリングスの音響に導かれ、青白い炎のような照明演出の中、ピアノソナタ 第0番「奏鳴」からスタート。高画質・高音質・カメラワークの切り替えによる総合的なアートとしての配信だ。元気な挨拶、iPadでコメントを見ながらのスタイル、いつもの「YouTubeのかてぃん」の顔も登場し、ホールの響きを味わいながら、リラックスした様子での演奏が続く。  

アルバム『HAYATOSM』のために制作されたエフェクトをかけたピアノサウンドとともに(Macを操作しながらの)リストの「暗い雲」、そして「死の舞踏」は、ずっしりとした低音と鋭い高音の表現を聴かせる。「死の舞踏」では、フーガ的な曲想に入る直前に、かなり長い即興を加え、アルペジョや装飾的な音型も随所に挿入した。赤と黒のコントラストの効いた照明が、画面上の角野とその音楽を一層美しく際立たせる。見たことのないサントリーホールの映像が、異化された世界へ、パラレル・ワールドへと誘い込むようであった。

「アドレナリンが出てやばいですね(笑)。クラシックホールにはまるでないような空間になっていたと思います。みなさん楽しんでますか? 僕はめちゃくちゃ楽しいです」

その楽しさはカメラが捉える演奏中の表情からも伝わった。「大猫」のワルツでは、レモンイエローの照明のなか、本当に楽しそうな角野の笑顔が溢れ出す。見ているこちらも幸せだ。「アイ・ガット・リズム」はハッピー度の高いアレンジで、「ラプソディー・イン・ブルー」のフレーズなども織り交ぜながらノリノリの即興が炸裂! 客席を「探検」する中で出会ったトイピアノ、いつのまにか現れた鍵盤ハーモニカ(という演出)に「ひとりで茶番を」などとはにかみつつ、オリジナル曲「ティンカーランド」でさらにヒートアップ!

ここでテンションを落ち着かせて、しっとりとしたショパンの「ノクターン第9番」、勢いはあるが歌い回しを丁寧に紡ぐリストの「ラ・カンパネラ」、そして渾身の「ハンガリー狂詩曲 第2番」とオリジナルの「カデンツァ」へ。ジャジーかつラテン的、ダンサブルでエキサイティングな展開も、最後にはきちんと「ハンガリー狂詩曲」の世界へと回収させていく。アンコールの「大きな古時計」は、角野の“陽性”な音楽性が光り輝く。そして最後に、安定感のある姿勢で、紳士的で真摯な「英雄ポロネーズ」を聴かせた。

リアルと配信の2つの公演全体を通じて、緊張感とリラックスのバランス感覚が程よく緩急をもたらし、明るさと叙情性とが強く印象付けられた。2021年の角野の取り組みは、いかにして我々に喜びを与え感動させてくれるのだろう。さらなる飛躍の一年になることを願いたい。

取材・文=飯田有抄 撮影=ogata