全日本プロレスと新日本プロレスが協力し、2月4日(木)東京・後楽園ホールにて開催される「ジャイアント馬場23回忌追善興行」。馬場さんの生前、両団体は激しい興行戦争を繰り広げていた。新日本でアントニオ猪木の右腕として全日本を挑発していたのが営業本部長の新間寿である。

76年6月にモハメド・アリとの世紀の異種格闘技戦を実現させた新間は81年5月、全日本の看板ヒールであるアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜き、ファンをアッと言わせた。しかし、2ヵ月後にはタイガー・ジェット・シンが新日本から全日本に戦場を移す。さらには年末の全日本「世界最強タッグ決定リーグ戦」蔵前国技館に突如として新日本のエース外国人選手、スタン・ハンセンが出現。新日本から全日本への電撃移籍が発覚し、引き抜き合戦はクライマックスを迎えた。この戦争における中心人物こそが、新間である。打倒・馬場で日本マット界の話題を提供し続けた過激な仕掛け人が、引き抜き合戦と馬場さんを語る。


――まずお聞きしたいのは、馬場さんが72年10月に全日本プロレスを旗揚げします。その前、3月に新日本プロレスが旗揚げしていました。当時から新間さんは新日本に関わっていらっしゃいましたが、全日本が旗揚げされたとき、馬場さんの団体ができるということでどんな気持ちになったか、おぼえていらっしゃいますか。

「おぼえてますよ。僕は新日本プロレスというのを無人島に船が難破して生き残った人間たちにたとえてる。無人島では、水や食べ物は自然から取る。しかし、このままここにいてもダメだと。我々は新しい船出をして人間世界に戻ろうと。そこで木を倒したり竹藪から竹を持ってきて、まずはイカダ作りから始める。それを作る人間たちや、食料集めるグループがいる。新天地を求めていろいろやるのが新日本だった。ところが馬場さんの旗揚げといったら、会社もいいところに用意し、テレビ放送もついている。だから、全日本を例えれば、豪華客船なんですよ」

――全日本という豪華客船がいきなり目の前に現われたと。

「そう。豪華客船の馬場ファミリーが(マット界に)乗り込んできて、悠々と世界一周旅行をしているんだ」

――世界とはNWAとか?

「そうだね。我々は無人島で、全日本は世界一周する豪華客船だった。生きる道を見つけようと船出した新日本と、馬場さんの全日本の船出とは、それだけ大きな違いがあったわけですよ」

――全日本は後発でありながら?

「そう。選手たちにしたって馬場さんサイドの方が世界から超一流の人たちが来た。じゃあ、新日本の旗揚げはどうだったか。豊登さんがいなかったら、観客は集まらなかっただろう。旗揚げの頃は、豊登という人がいたから観客が集まってきたんだよね」

――そのときはまだ猪木さんは看板にはならなかったと。

「難しかった。でもその後、いろんなことがあって猪木さんは知名度を上げていった。だけれども、まだまだ馬場さんの船出する体勢とはまったくの段違い。片方は会社乗っ取りの汚名を着せられたくらいだからね。もうホントに一から立て直さなければいけなかった。だったら、よーし、絶対に全日本に負けるかと、こんないいライバルいないじゃないかと思ったよ。そういう思いがあったし、馬場さんがいたからこそ、全日本があったからこそ、新日本があったんだよね」


――そこで新日本vs全日本の図式ができあがります。新日本としては、まずは猪木さんの知名度を上げていく戦略ですか。

「そうです。異種格闘技戦とかね、馬場さんがやらないことをする」

――その先に、外国人レスラーの引き抜き合戦が勃発します。アブドーラ・ザ・ブッチャー(全日本→新日本)、タイガー・ジェット・シン(新日本→全日本)、スタン・ハンセン(新日本→全日本)らが移籍しますよね。2月4日の「ジャイアント馬場23回忌追善興行」では特別試合として「ジャイアント馬場vsスタン・ハンセン」の映像が流されますが、ハンセンが全日本に移籍したことについて、新間さんはどのように感じられましたか。

「ショックだった。ものすごいショックだった」

――新日本が仕掛けた引き抜きへの報復ですよね。

「そう。馬場さん、やるときはやるんだな、やられたと思ってね。だけど、ハンセンは違約金をちゃんと送ってきたんだよ。リングのなかは別にして、彼ほどの人格者はいなかったね。リングの外に出て紳士だった超一流の選手の名前を、私は2人だけ挙げることができる。スタン・ハンセンとフレッド・ブラッシーですよ。この2人は私が知り合ったなかで最高の人格者だった」

――ハンセンは81年12月13日、全日本の「世界最強タッグ決定リーグ戦」、最終戦の蔵前でブルーザー・ブロディのセコンドにつき、テリー・ファンクに場外でラリアットをぶち込み電撃移籍。蔵前に現われた試合はテレビなどでご覧になりましたか。

「見なかった」

――それは、あえて見なかった?

「あえて見なかった、うん。馬場さんがどういう試合をするかはわからないけれども、ハンセンが全日本に行ったって、猪木vsハンセンみたいな試合はできないという自負が私にはあった。猪木さんというのはそれほど素晴らしいレスラーだったからね」

――馬場vsハンセンは、年が明けて82年2月4日の東京体育館で実現しました。その試合をご覧になったことはありますか。

「見なかった」

――それも、あえて?

「うん」

――カードが発表されたときも、猪木vsハンセンには及ばないだろうなという考えでしたか。

「変わらない、うん」

――ただ、この試合は年間ベストバウトを取りました。

「そうだ。それでも、私が引き抜いたブッチャーと猪木は噛み合わなかったでしょ」

――新間さんが引き抜いたブッチャーは猪木さんとはいい試合にならなかった?

「噛み合わなかった。なんであんなに噛み合わなかったのかわからない(苦笑)。ホントに噛み合わなかったよね。だからこそハンセンというのはホントにすごいなと思ったね。馬場さんもすごかった。だってハンセンとやって東京スポーツの82年度の最高試合賞を取ったんだからね。馬場さんもホントに力を入れたんだなあと。死にもの狂いでハンセン戦をやったんだろうなあと、そのとき思ったよ」


――その頃はちょうど、前年4月にデビューした(初代)タイガーマスクがダイナマイト・キッドを破り、WWFジュニアヘビー級王者になったあとでした。82年は新日本が大ブームとなった年ですよね。だけれども、ベストバウトは馬場さんに持っていかれた。新間さんとしては、悔しかったのではないですか。

「悔しいなんてもんじゃなかったよね!」

――馬場vsハンセンの試合映像はまだご覧になっていないですか。

「まだ見てない(笑)」

――ということは、2月4日後楽園でご覧になりますか。

「ああ、見たいね! 是非、見たい。ハンセンで一番思い出に残ることは、小切手で違約金を払ってくれた人格者であると同時に、後輩ハルク・ホーガンへの思いだよね。当時、WWFのビンス・マクマホン(シニア)がハルク・ホーガンをこれから日本に送り込むから彼の知名度を上げてやりたいと言っていたんだ。そして、日本にハンセンとホーガンが揃って来たときに、ホーガンが私を呼んで『アックスボンバーという技を使いたい』と。それはどういう技かと聞いたら、『ハンセンのウエスタンラリアットだ』と言うじゃない」

――ほぼ同型ですね。

「そう。ラリアットは腕を伸ばす。が、アックスボンバーは肘を曲げる。これだけの違いだとホーガンが説明したんだ。それで『ミスター新間の方からハンセンに断ってくれないか、ハンセンに聞いてくれ』と言うんだよ」

――自分からは言いにくいと?

「そう。そこでまずビンスに聞いてみたんだけど、『お前から聞いていい、スタンは、ハルクのことが好きだからな』とね。『ハルクは絶対にいい選手になると言ってるから、それくらいのことならスタンはすぐにOKしてくれるぞ』と。どこの体育館だったかな、2人が同時に来日していたシリーズのある体育館で、ハンセンに話したんだ。ハルクがラリアットを使いたがってると。そしたらハンセンは『構わないよ』と。それですぐにホーガンを呼んだら、いいぞって2人で話して握手して、そしたらハルクは一生懸命アックスボンバーの形を説明して、ハンセンは『ノー・プロブレム、問題ない、使っていいぞ』となったんだ」

――その後、ハンセンは全日本に転出するわけですね。

「そうだね。別々の道を歩むようになる」

――ハンセンの全日本移籍が引き抜き合戦のクライマックスかと思いますが。

「そうだね。そもそもブッチャーが新日本に来たことが引き抜きの最初なんだけれども、IWGP参戦を表明して、それはそれはすごかったわけ。だけどそのあと、シンを取られたでしょ」

――そして、ハンセン。

「そうだねえ、この2人はさすがにショックだったよね」

――その末に、両団体で話し合いがもたれて引き抜きはやめようということになったんですよね。

「(馬場、猪木、新間が写った)この写真だよね。82年の7月3日。馬場さんと猪木さんが会談をおこなったのよ」


――どちらから話を切り出して会談が実現したのですか。

「(東京スポーツ紙の)櫻井康雄さんと(ゴング誌の)竹内宏介さんが(エスカレートする引き抜き合戦に)心配してね。どこだったかな、まずは3人で食事をして、『引き抜きは、もうやめましょうよ』という話になった。引き抜くんじゃなくて、話し合いで選手の交流をするとか、そういう方がいいじゃないかと。それで、竹内さんに、馬場さんに話し付けられるかと言ったら竹内さんはできると。じゃあ俺も猪木さんに話すよとなって、それで実現した場所が九段のグランドパレス。そこで馬場さんと猪木さんが会ったのよ」

――竹内さんが馬場さん、新間さんが猪木さんに話しを持っていったと。

「そう。特別に部屋を取ってね。馬場さんと猪木さんのどちらが先に部屋に入ったかはわからないけど、話し合いの間、我々は下の階でお茶を飲んでた。1時間くらい待ってたかな。部屋の番号を調べてもらって、竹内が馬場さんのところに連絡した。しばらく待ってから俺も猪木さんに連絡した。そしたら上がってこいよと。それで竹内さんと一緒に部屋に行ったんだよね。部屋に入っていったら、2人のニコニコ顔が見られたんだよ」

――いくら和解を目的とした話し合いとはいえ、引き抜き合戦の最中ですから険悪なムードで始まったとかなかったですか。

「全然ない!」

――いざ会ってみたらまったくなかった?

「ない!」

――最初から引き抜きはやめようという前提で話し合いになったのでしょうか。

「そういうことだよね」

――新間さんの方も、お互いに選手を引き抜くのはやめにしたいという気持ちがあったのですか。

「そういう気持ちはあったよ、うん」

――ハンセン引き抜きのショックが大きかったからでしょうか。

「うん、それとシンね。まあ、2人の話じたいは簡単に終わったんだと思うよ。久しぶりに2人で会ったから、そのあと2人でいろんな話をしてたと思うよ。下で待っていた俺たち(新間、竹内)は、長くなってるのはいいことだと。昔話をいろいろしてるんだろなと思ってたよ。部屋のなかで話をしてたのは馬場さんと猪木さんだけ」

――話し合いが終わってから新間さんが部屋に入り、この写真を撮ったのですね。

「竹内さんと一緒にね。この写真のシャッターを切ったのが竹内さんで、俺も彼のカメラでシャッターを切ったよ。彼もこのときの写真を持ってたね。宝物ですよ」


――なるほど。では、馬場さんがいなければ新間さんの道もだいぶ変わっていたでしょうね。常に新間さんの仕掛けであったり、そういったものに対しては常に馬場さん姿が背後にあったわけですよね。

「うん、あった。日本プロレス界の馬場と猪木はどういう関係だったか。馬場さんは富士山で、猪木さんは北岳だった。日本一の富士山がいつでも目の前にあるような気がしてたね。この富士山を超えるにはどうしたらいいのか。猪木さんは、日本第二の山、南アルプスにある標高3193メートルの北岳だ。そこに登ると、必ず草鞋をおいてこなければいけないという言い伝えがある。なぜかというと北岳の神と富士山の神が論争をしてオレの方が高いとお互いが言い合って、もうひとりの神が出てきて大きな大きな竹竿で(高さを)はかったんだという。そうしたら北岳の方が少し低かったと。富士山が日本一の山となり、北岳の神がこの山に登ってくる人間は草鞋をおいていけと。草鞋が積もって富士山と同じ高さになる、超えるようにしろという言い伝えが昔からあった。その山が北岳だと。そびえ立つ富士山を超えたい。その山がジャイアント馬場であり、我々新日本プロレス軍団は北岳だったわけだ。なんとしてでも馬場を超えよう、富士山を越えよう、積み重ねていく草鞋になろうと。一戦一戦アントニオ猪木が闘うことがその草鞋を増やしていくと。いつかは北岳が富士山を追い越す高さになるだろうと。それにはどうしたらいいかと考えたのが、IWGPだったんだよね」

――猪木さんが超えるために、新日本プロレスが超えるために。

「そう」

――引き抜き合戦は終わっても、馬場vs猪木、全日本vs新日本の闘いは形を変えて続いていくわけですね。

「そうですよ」

――では、新間さんにとって、馬場さんとはどういう方でしたか。

「初めて会ったときから大きい人だなあって。それが1962年、小倉の三萩野体育館ね。そこで豊登さんから新人時代の猪木さんを紹介されたんだけれども、同じ控え室に馬場さんもいた。同じ控室にいたにもかかわらず馬場さんはなぜか紹介されなかったんだ。控室の前に豊登さんが猪木さんを呼び出して紹介してくれた。その部屋の中に馬場さんがいるのが見えたんだけれどもね。なんでかなと思って豊さんに聞いたんだけれども、『馬場はタッパもあるし、将来絶対にスターになる。が、俺が一番期待しているのはこの男、猪木寛至なんだ』と。そこからずっと馬場さんも俺の意識に入っていたよね。そして新日本と全日本に分かれて、俺たちはずっと馬場さんを超えたいと思って闘っていた。とにかく馬場さんは、人間としてすごい人だったね。素晴らしい人だった、うん。誠実さがあって。だから猪木さんと一緒に超えたかったんだよね」


映像を交えて再現される「ジャイアント馬場vsスタン・ハンセン」。この方式は新間が16年10月7日に後楽園ホールで開催した「昭和の新日本プロレスが蘇る日」がモチーフになっているのかもしれない。このときはアントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳(現・辰爾)、タイガーマスクらの名勝負がダイジェストでスクリーンに映し出され、昭和の新日本が平成の時代に共有された。そして今回は、昭和の全日本が令和の時代に蘇る。

ベストバウトを獲得した馬場さんの名勝負。あれからちょうど40年の2・4当日、「当時はあえて見なかった」という新間は、この試合からいったい何を思うのだろう。是非、会場で、あのときの興奮を味わいたい。
(聞き手:新井宏)


【対戦カード】
<メインイベント 6人タッグマッチ60分1本勝負>
武藤敬司(フリー)&諏訪魔(全日本プロレス)&小島聡(新日本プロレス)
 VS天山広吉(新日本プロレス)&カズ・ハヤシ(GLEAT)&河野真幸(フリー)

<セミファイナル タッグマッチ30分1本勝負>
永田裕志(新日本プロレス)&青柳優馬 (全日本プロレス)
VS 鈴木みのる(パンクラスMISSION)&佐藤光留(パンクラスMISSION)

<第4試合  ステーキハウス寿楽PRESENTS シングルマッチ30分1本勝負>
BUSHI(新日本プロレス) VS青柳亮生(全日本プロレス)

<第3試合 ジャイアント馬場23回忌追善特別試合>
ジャイアント馬場 VS スタン・ハンセン  

<第2試合 追善特別試合8人タッグマッチ30分1本勝負>
渕正信(全日本プロレス) &大仁田厚(フリー)&グレート小鹿(大日本プロレス)  &越中詩郎(フリー)  
VS 2代目タイガーマスク(フリー)&大森隆男(全日本プロレス)
&井上雅央(フリー)&  菊地毅(フリー)

<第1試合6人タッグマッチ30分1本勝負>
新崎人生 (みちのくプロレス) &長井満也 (ドラディション)     
VS西村修(フリー)&アンディー・ウー(フリー)

◆レフェリー:和田京平、レッドシューズ海野、西永秀一、神林大介
◆リングアナウンサー:木原文人、宮田充、阿部誠

※出場選手はケガ等により変更となる場合が御座いますので、予めご了承下さい。