2018年に千葉大学演劇部を母体として発足したぺぺぺの会が、2021年5月1日(土)〜5月4日(火)東京・北千住にある BUoYにて、『No.1 Pure Pedigree』を上演する。本公演は新型コロナの影響で延期となったため、1年越しの上演となる。

『No.1 Pure Pedigree』は、キュビズム創始者の一人、ジョルジュ・ブラック(1882-1963)の半生をもとにした物語詩集。第一次世界大戦に従軍したジョルジュ・ブラックの生涯とその手記を題材に、第一次世界大戦前後の世界を描く。
2020年の現在も、未だ世界では諍いが絶えない中、第一次世界大戦中を生きた芸術家の苦悩と、現代人が抱える苦悩は、通底している部分があるはず。そこで、本公演では、第一世界大戦中にジョルジュ・ブラックが感じた苦悩と、令和を生きる私たちが抱える困難を、演劇を通して重ね合わせる。

通常想定されるようなセリフがある戯曲を用いず、オリジナルの物語詩集を用いる。強い批評性を持つ詩という媒体を戯曲として用いることによって、単なる過去の世界の話としてではなく、現実の世界に肉薄したものがたりを紡ぎ出す。

作・演出:宮澤大和 あいさつ

展示される演劇——つまり観客は「観る客」であり「観られる客」である

今日のテレビドラマには(ややもすれば映画にだって)観客の存在意義について想定されていないものが多いように見受けられます。観客は「観る客」なのだから、表現者はただ笑わせたり、泣かせたり、驚かせたりすればいいんだよ——そういうエンターテイメント性に富んだ作品も確かに必要ですが、そういったものが「一般」で、それ以外は奇矯であると仄めかす時代の流れには賛同することができません。

とりわけ演劇は、スクリーン越しではなく、観客の目の前に演者がいて、演者の目の前に観客がいるのですから、観客の存在意義について真剣に考えなければ、演劇はこのまま「遺産としての表現媒体」に成り下がってしまいます。舞台芸術が映像に勝つにはこれを攻略するしかないのです。

私は観客を「観る客」であると同時に「観られる客」であると考えています。過去作『夢の旧作』(19.7)では、冒頭で演者が観客席にカメラを向けます。

観客は「観る客」として着席したのに、自分たちが「観られる客」になったことに違和感を覚えます。そして撮影された動画は演劇が終わったあとに再生され、観客は「演劇を観る前の自分」の姿を目にしながら帰ります。たったこれだけの演出ですが、座席からはざわざわとした声があがりました。

今作『No. 1 Pure Pedigree』の惹句でも「見る」「見られる」という言葉選びをさせていただきました。

フクロウが鳴いている,
きみには聞こえるか,
「まえ」と「うしろ」の見分けもつかない暗夜に
射しこむ一筋の光線 No. 1 Pure Pedigree
展示される演劇;
きみは見られることを知って,
見ることを知るのだから,

感染症禍の時代。私たちは、遠く離れた場所にいる相手とも、画面越しで話すことが「ふつう」になってしまいました。これまで「ふつうでなかったこと」が「ふつう」になるときには、かならず〈何か〉が零れ落ちるものです。

私たちの〈身体〉はどこへ消えていってしまったのでしょうか。

相手に触れたときのあたたかさ。髪を掻きあげたときのかおり。『No. 1 Pure Pedigree』では、身体がそこにあるということ、とりわけ作品と観客が空間を一にするということを追求します。

感染症禍を言葉によって描き、時にエールを送り、時に風刺するような演劇はありふれていると思う。でも、いま、演劇作家がほんとうに取り組まなくてはいけないのは「演劇が演劇である意味」を究めることではないでしょうか。

私たちは演劇を展示するのではありません。演劇は展示されているのです。これは単なる言葉遊びではない——おそらく劇場に足を踏み入れた瞬間に感じられるはずです。