2021年11月に新国立劇場 小劇場にて、2021/2022 シーズン演劇公演『イロアセル』が上演される。

本作は毎シーズンに一本、全キャストをオーディションで選考、上演する企画の第4弾。倉持裕が2011年に新国立劇場に書き下ろした戯曲(演出は鵜山仁)を、今回自ら演出する。

物語の舞台は、海に浮かぶ小さな島。発する言葉にそれぞれ異なる固有の色がついた島民たちは、いつどこで発言してもそれが誰の言葉なのか特定されてしまうため、慎重に発言して、嘘をつかないし、嘘をつけない生活を送っている。そこへ、島の外から囚人と看守がやって来る。島民でない彼らの言葉には色がなく、そして彼らと話す時だけは島民たちの言葉も色がなくなることがわかり、囚人と看守のもとへは次々に面会を希望する島民たちが訪れる、という話だ。

SNSなどの匿名性を利用した発言が社会現象を巻き起こす昨今において、日常における対話や発言の在り方を問いかけるような作品だ。「フルキャストオーディションで『イロアセル』をやってみないか」と、新国立劇場演劇芸術監督の小川絵梨子から話を持ち掛けられた当初は予想外のことで驚いたという倉持に、今作の上演について話を聞いた。

フルキャストオーディションは楽しかったけど、つらかった

ーー今回の上演に際して、最初にお話が来た時はどういうお気持ちでしたか。

新国立劇場のフルキャストオーディション企画については、第一弾が『かもめ』でしたし、そういう誰もが知ってる戯曲をやるものだと思っていたので、「『イロアセル』でどうですか」と小川さんからお話をいただいたときはビックリしました。でも改めて読み返してみたら、確かに今やっても面白い作品かもしれないなと。ただ、10年前は鵜山さんが演出してくださって、だから鵜山さんが「何だ、俺の演出が気に食わなかったのか」って思わないだろうかとかちょっと気になったんですけど、今回の企画を鵜山さんにお伝えしたら「ああ、面白いよねあの作品!」と非常にあっけらかんとした反応だったということを聞いてホッとして(笑)、それでやることに心を決めました。

ーー今回はフルキャストオーディションということで、「僕の経験上、最も理想的なキャスティングとなっている」と倉持さんもコメントされていましたが、オーディションを実施した感想を改めて教えていただけますか。

本当に楽しかったです。もちろんとても大変でしたけど。人間のエネルギーはやっぱりすごいですね。なんでしょうね、あれは。実際にオーディションをしている最中は、言葉にできないエネルギーを役者さんたちからひたすら浴び続けている感じで、体力的に疲れました。とは言え、感染症対策で僕の前にはアクリル板がドーンと置いてあったり、皆さんもマスクにフェイスガードをしているという異常な状態だったので、オーディションを受ける側もかなりストレスだったんじゃないでしょうか。でも、これまで存じ上げなかった、あるいは役者として拝見したことはあっても仕事の場ではご一緒したことがなかった方々と出会う時間の中で、それぞれの役者の芝居に対する姿勢とか、ポリシーみたいなものも感じ取ることができて楽しかったです。

でも、やっぱり「選ぶ」というのはつらいことでしたね。オーディションの後半、候補者がどんどん絞られてくると、役者の良し悪しだけで選んで決めていくのではなくて、この役をAさんがやるんだったら相手役はBさんがいい、みたいに、だんだん組み合わせやバランスを考えなければならなくなってくるんです。で、その組み合わせが決まってくると、自分の中でなんとなく2チームぐらいに絞られてきて、そこからは、僕はこの『イロアセル』という作品をどういう方向で上演したいのか、という選択にもなってきて。だから役者を選ぶと同時に作品の方向性の決断を迫られていくというのは、かなりつらかったし大変な作業でした。

倉持裕

倉持裕

ーー今作のオーディションの応募が1831人、そのうち書類選考を経て実際にお会いになった人数が約300人とうかがいました。300人と会うというだけでもかなりのパワーが必要ですし、そこから10人に絞り込むというのも大変なことだったと思います。

理想的というよりも、それだけの思いをして選んだんだから絶対大丈夫、と自分の中でも自信が持てますよね。あまりその人の芝居を知らないでキャスティングすることもありますし、知っている役者でもキャスト同士の相性は稽古をやってみないとわからない、という不安がどうしてもありますけど、今回はそれがないです。

ーー組み合わせのところから見られたということが、フルキャストオーディションの大きなメリットだったんですね。

それは大きいですね。僕は以前から、全部の芝居がそうならなくてもいいけど、全員オーディションで選ぶということが理想的だし、もっとそういう作り方が増えたらいいのになと思っていたんです。以前、菊池凛子さんから聞いた話なのですが、ハリウッドだとどんなに有名だろうが無名だろうが、みんなオーディションを受けて役を取ってくるそうです。そうしないと「タイプキャスト」と言って、似たような役ばかりオファーされることが増えていってしまうんですって。それを聞いて「なるほどな」と思って、自分でもフルキャストオーディションをやってみたいなと思っていた矢先に、新国立劇場でフルオーディション企画が始まって。だから元々僕自身が追い求めていた作り方ではあったんです。

SNSは言葉に無責任なままどんどん膨張している感じがある

ーー今作は10年前の2011年に書き下ろされましたが、なぜこういうテーマで書かれたのでしょうか。

当時の芸術監督だった宮田慶子さんが、その年のシリーズテーマを「【美×劇】─滅びゆくものに託した美意識─」で行きますとおっしゃって。僕の新作を鵜山さんが演出する、というのは決まっていたので、鵜山さんと「滅びのテーマでどんな作品にしようか」と話してたら、鵜山さんから新聞とかテレビとかマスメディアがだんだん影響力を失い始めている、という話が出て。なぜそうなったのかを考えたら、インターネットの影響なのかなと思ったんです。当時、インターネットには匿名の言葉があふれていて、新聞みたいに言葉のプロである記者が名前を出して書いている言葉よりも、どこの誰かもわからない匿名の言葉が影響力を持ち始めたような時期だったんです。なぜ人はそこまで匿名で言葉を書きたがるのか、みたいなことから発想した話で、匿名の立場のまま大勢に物を言う快楽に夢中になってしまう過程のようなものを書いてみることで何か検証できるかな、と思ったのが最初でした。

ーー書いてから10年経って、当時と比べて状況はどのように変わって来たと感じていますか。

この本の初稿を書き終えたときが、東日本大震災の少し前だったと思います。震災のとき、電話は通じないけどツイッターが一番機能していたんですよね。それまでは主に若者の遊びのツールだったのが、震災後に年配の方々もワーっと参入してきてツイッターが広まった感じがありました。その頃から原発問題とか政権批判とかの社会的な発言が多く見られるようになって、演劇人たちのツイートもそれまではほとんどが他愛もない会話だったのが、社会的なコメントにだんだん変わってきて、一時期そういうこと以外呟けない空気を感じるようになりました。

『イロアセル』は、SNSの使い方によってだんだん息苦しくなってきたその感じをちょっと批判的な目で見て書いた戯曲ですが、あのとき問題だと感じていたことは10年経ってさらに悪化してるんじゃないですかね。実際日本でも、SNSが原因で亡くなっている方もいらっしゃるじゃないですか。だからより言葉に対して責任を持つようになるのかと思いきや、そうではなく、無責任なままどんどん膨張してしまっている、そんな感覚はあります。

ーー10年経ってみて、現在の状況に即して台本を変えたりということは考えていらっしゃいますか。

多少は手を入れますが、そんなに大きくは直さないです。10年経って社会の状況が変わったからというよりは、自分の中で演劇に対して面白がってることがちょっと変わってきてるから、直すとしたらそういったところです。今読み返すと、やけにしつこく書いてるなと感じる部分とか、反対にあっさり済ませちゃってるなと思う部分があって、そう感じるのは自分の中の変化なんですよね。当時はそこを面白がっていたり、逆に大事だと思っていなかったことが、10年経つと僕の感じ方も変わっていて。それはもしかしたら自分の中だけの問題ではなくて、この10年という時間があって、今の空気を吸って体で受けているからこそ、そう思うのかもしれないですけど。

ーー物語の中で「カンチェラ」という架空のスポーツが登場しますが、何やら不思議なスポーツですよね。

モチーフはフィギュアスケートです。当時、2人の選手がライバルとして激しく競っていて、ネット上でも2人についてはかなり激論が交わされていました。陰謀論とか、賄賂がどうの、という話もあったりして。フィギュアスケートのような採点競技は早さを競ってタイムが出たりするわけじゃないから、憶測でいくらでも言えてしまうんだろうな、という思いがまずありました。いくらでも妄想を抱けるっていうんですか。何の根拠もないまま、大勢が賛同しちゃうとそれが事実になってしまう、そういうことが起こりやすいんでしょうね。

倉持裕

倉持裕

「話す言葉」と「書く言葉」が分け隔てなく使われている状況は怖い

ーー「話す言葉」と「書く言葉」について、倉持さんの中ではどのように違いを感じて意識されているのでしょうか。

今こうして話していても思いますが、僕はやっぱり話す言葉よりは書く言葉の方が自信は持てるかなと思います。書く言葉というのは残るものだし、こちらもある程度時間もかけられる一方、何度も読み返されたりもするから、やはり慎重になりますよね。でも、それが今は「書く言葉」が「話す言葉」と同じような扱いになってきているんだろうなと思っています。よく“垂れ流す”とかって表現されますけど、あまり推敲せずに思いついたらそのまま書いて出しちゃうわけですよね。「話す言葉」には肉声の力というのもありますから、本来は使い分けるべきなんだろうなと思います。でもそれが分け隔てなく使われてしまっているという、その状況はすごく怖いなと思います。

ーーこうやってお話ししているときは相手が目の前にいて、この人に対して話しているという意識を持てますが、SNSとかだと相手が見えないゆえにあまり意識しないで書いてしまう面もある気がします。

それはもちろんあるでしょうね。相手の反応を見ずに書いてしまう。でもそんなことは当たり前のことで、だからこそ慎重に書かないといけないし、書いた意図がうまく伝わらなかったときに、その相手を「読解力がない」と責めても意味がない。読む人の中には読解力がない人もいるんだ、という意識を持つのは当然のことで、だから書く場合は誤解されない言葉で書かなくてはいけないというか。会話だったら、あ、これ今、相手が違う意味で取ってるなと気づいたところで言い直したりできるけど、一方通行な文章の場合は、初めから誤解されたり理解されないという危険を想定しなきゃいけないんです。でも、世の中の大半の人たちが言葉を扱うプロじゃないわけで、そんな人たちがそこまでできるはずがないだろう、とも思う。

ーーSNSでは例えばいいねとかリツイートといった形で、共感だったり何らかの反応を言葉ではなく示せるツールがありますが、その辺についてはどう感じていますか。

どうなんでしょうね、言葉で伝わりにくい部分を一生懸命埋めようとしたのがああいうツールなんじゃないですかね。でも今度はそれを使わないと不安になってきちゃったりもする。コミュニケーションを円滑にしようと思って作られたツールを使い始めたことが、かえってやりにくくさせている部分はあるのかもしれないですね。やっぱり結局行き着くところは、シンプルに文章で頑張って自分の意図をなるべく正確に伝える、ということじゃないでしょうか。

ーー今作の上演に向けて、倉持さんご自身が楽しみにされていることや、期待されていることがありましたら教えてください。

まず何といってもこういう状況ですから、無事に上演できることを願っています。今作はフルキャストオーディションということで、役者を見てもらえるのはもちろんのこと、作品もちゃんと見てもらえるんじゃないかなと思っています。スタッフとキャストのみんなで「作品」に向かって、みんなで作っているという、本来当たり前の形の芝居が披露できるといいなと思っています。

ーーオーディションのときから見てきた10人の出演者たちと、改めて稽古で会えるのも楽しみですね。

普段の芝居だと、稽古初日に役者同士はもちろん、僕自身も初めて会う人が何人かいたりするんですけど、今回はとにかくそれがないですからね。オーディションで何度も何度も皆さんの芝居を見てるし、こちらも見られてるし、役者同士もお互いを見ているし、っていう状況で稽古初日を迎えられるというのはすごく楽しみです。

倉持裕

倉持裕

取材・文・撮影=久田絢子