音楽業界の様々な分野のプロフェッショナルを紹介する連載「匠の人」。今回登場するのは元SIAM SHADEのドラマー・淳士。T.M.Revolution、GACKT、Acid Black Cherry、Sound Horizon、Linked Horizon、luz、HYDEなど、数々の大物アーティストのバックバンドで活躍している姿をライブで観たことがある読者は多いはずだ。自身のバンドであるBULL ZEICHEN 88、戦国時代-The age of civil wars-での活動も重ねていて、最近ではYouTubeチャンネルを通じての発信にも力を注いでいる。国内ロックシーンの貴重な現場の目撃者でもある彼に、ドラムに対する情熱とこれまでの軌跡を語ってもらった。

――ドラムを叩くようになったきっかけは、どのようなものでした?

僕は中学2年生の時にエレキギターを始めて、「絶対にギターでプロになる!」って決めていたんです。でも、高校に上がると大体各校にひとりは「ルックス悪いけどギターがスゲ〜上手いヤツ」ってのがいるんですよね(笑)。そいつのプレイを聴いて「あ、僕は一生かかってもこいつにはかなわないな」という挫折を味わいました。そいつがラウドネスの高崎晃さんのプレイを見事に完コピしているのを聴いて、それまでのギターに対しての想いがあっさり冷めちゃったんですね。で、ずっと興味があったドラムに鞍替えすることにしたんです。それが高1の時です。

――楽器やロックに対する興味は、どこから始まったんですか?

聖飢魔Ⅱからです。中2の時に「蝋人形の館」を聴いて「これがヘヴィメタルか!」と、すっかり飲み込まれてしまったんです。当時のギタリストだったジェイル大橋さんがものすごくカッコ良くて「将来、大橋さんになる!」って思っていました。

――ドラムに転向してからはいかがでした?

見様見真似ではあったんですけど、16ビートくらいだったら手順、足順という意味ですぐに叩けたんです。僕はとっかかりは器用なタイプなので。ギターの耳コピも得意でしたし。そういう耳はいいんだと思います。

――ドラムの練習はどうしていました? 中高生だとパッドや雑誌を叩く自宅練習が中心となるのが一般的ですけど。

僕の実家は神奈川県のすごくのどかな地域でご近所は数軒しかなくて。だから音楽雑誌に広告が載っている「大特価! 基本セットで19800円!!」っていうドラムセットを買って、実家でバカスカ叩いていました。僕は基礎練習が苦手で、そういうのをすっ飛ばしてさっさと曲をやりたがるようなせっかちなタイプなんです。で、ドラムを始めて早々の時期にインディーズ界でX(現X JAPAN)が頭角を現し始めたんですよ。ツーバスのドラムをあんなに速く叩いて、あんなものすごい髪型をしている人たちを見たことがなかったので、出会った瞬間に電気が走りましたね。そこからはYOSHIKIさんを目指すようになり、「将来、絶対YOSHIKIになる!」って言ってました(笑)。で、「進学するし、そろそろドラムセットいらないわ」って言っている学校の仲間がいたので、それをもらって無理やりツーバス仕様にして、ひたすら練習しましたね。

――ということは、ドラムを始めてすぐの頃にひたすらコピーしたのはX?

Xです。当時、周りにツーバスを踏めるやつがいなかったんですよ。「ビートが安定していていいよね」っていうような基礎練習的なことはどうでも良くて、とにかくツーバスを速く踏めるやつが勝ちだと思っていました(笑)。僕、本名が佐久間って言うんですけど、「あそこの高校の佐久間ってやつ、ツーバスはえーぞ!」と言われるためにひたすらツーバスを速く踏む練習をしていました。

――ドラムがすごいという噂が広まると、「ウチのバンドに入ってくれ」みたいなことにもなっていったんじゃないですか?

全くなかったです(笑)。で、やってたバンドも高校生の集まりだったので、進学するやつもいてメンバー内の温度差が結構あったりしてなかなか上手くいかなかったんです。僕は「ロックスターになる!!」と親に大胆な大口を叩いて高2いっぱいで学校を中退したので、なんとしても音楽でやっていくしかなくて(笑)。だからとりあえずプロ志向のバンドを組まないといけなくて。そのためには楽器屋やリハスタでバイトしてメンバーを探すのが一番手っ取り早い方法だと思ったんです。それで小田急線の伊勢原駅の近くの楽器屋さんに履歴書を持って面接に行ったら、たまたまその店でLUNACY (現LUNA SEA)メンバーがバイトしてたんですよ! 

――偶然とはいえ、ものすごい出会いでしたね。

はい。それが僕にとって何よりも大きかった出会いですね。その楽器屋さんは2店舗あって、ドラムの真矢さんは僕と違う店舗に入ることが多くて。実はそのちょっと前にアマチュアロックフェスで、当時は存在を知らなかったLUNACYのライブを観たことがあったんですが、ものすごくかっこよかったんです。「あのバンド、どこでどんな活動をしてるんだろう?」ってずっと思っていたんですよね。その楽器屋さんでバイトを始めてしばらく経ってから、たまたまシフトで一緒だったJさんに「Jさんもバンドやってるんですよね?」みたいなことを訊いたんです。そしたら「LUNACYっていうバンドやってんだよ」と。「LUNACY!? えっ!? ひょっとしてですけど○○でやったフェス出てました?」と訊くと「出たかもな」「えええっ!!!」って(笑)。それで「ドラムの人に会いたいです!!!」と。

――真矢さんとの出会いはそこだったんですね。

そうなんです。「この日にシフト入ってるから会いに行けば?」ってことになって会いに行きました。僕がライブで初めて観た真矢さんは、ものすごい多点セットの中で、サラッサラのポニーテールを振り乱しながらまるで天女が舞うように美しくドラムを叩いていたんです。でも、初めて実際に真矢さんに会ったら……眉毛とか全くなくて肩で風を切って歩く超怖そうな人だったんです(笑)。「人違いかな?」って感じで本当に戸惑いました(笑)。そこからまあ色々あって、正式に真矢さんに弟子入りしてLUNA SEAのインディーズの頃の全国ツアーについて行くことになったんです。

――LUNA SEAが町田プレイハウスで黒服限定ギグとかをやっていた頃も、その現場にいらっしゃったということですね。

その後ぐらいじゃないかな。そこら辺の時系列の記憶は怪しいですね。僕がローディーとしてつかせていただいた頃、ちょうどYOSHIKIさんがLUNA SEAのライブを観にいらっしゃってたのは覚えてます。だから「エクスタシーレコードに入れるかもしれない」ってメンバーも喜んでいた印象があります。だから目黒のライブステーションとか、「いよいよ初の鹿鳴館ワンマンだぜ!」ってすごい気合を入れていた姿も見ました。

■分岐点はいっぱいあったんですけど、自分の判断で外したことが1回もないんです

――ローディーをやりつつ、ご自身のバンドの活動はどこから始まったんですか?

ローディーをやり始めた頃に初めてのプロ志向のバンドもやるようになっていたんですけど、LUNA SEAもすごく忙しくなっていたので、自分のバンドがなかなかできなくなったんです。そうこうしている内にそのバンドの中で、就職するメンバーが出てきて。その頃にSUGIZOさんのローディーをやっていたギタリストが「一緒にバンドやんない?」って声をかけてくれたんです。そのバンドに入るのは僕にとってステップアップでしたね。そのバンドも結構長くライブハウスで活動していたんですが、しばらくするとベースのやつが「田舎に帰る」って言い始めて、ギターのやつも他所のバンドに引き抜かれ……。なんかうまくいかないな〜って思った矢先、hideさんの付き人をやっていたやつが「一緒にやろう」って声をかけてくれて一緒にバンドをやることになったんです。そのバンドではインクスティック鈴江ファクトリーでワンマンをやりました。

――すごい!

そのバンドでは僕が9割くらい曲を書いていたんですが、僕は作曲家としての自信なんてなかったので、ずっと「これでいいんだろうか?」って思っていたんです。で、考え抜いた結果、思い切って脱退しました。その後のあてなんて何もなかったんですけどね。そうしたらちょうどその頃にSIAM SHADEのドラマーが脱退したという情報が入ったんです! なんてタイミングだと思いました。僕から連絡したのか、栄喜(当時はCHACK)からだったのかは覚えていないんですけど、「ドラム辞めちゃったんだよ」「僕もバンド辞めたんだよ」「ええーっ! じゃあウチ入ってよ」「いやいや入れてよ!」ということになり加入しました(笑)。そして翌年にSIAM SHADEでメジャーデビューという。

――SIAM SHADEのメンバーとはもともと知り合いだったんですね。

はい。僕が18歳くらいの頃、栄喜とNATCHINがやってたSIAM SHADEになる前のバンドが小田原のスタジオで練習していたんです。僕もそのスタジオに出入りしていて、「いつか機会があったら一緒にやれたらいいね」っていう話はその頃からしていましたね。そして、時を経てそういうことになりました。僕が21歳の時かな?

――順調に様々なことが次へと繋がり続けていますよね。

僕にはこれまで分岐点がいっぱいあったんですけど、「こっちの水が甘く見える。でもなんか知らないけどこっちに行きたい」っていう衝動に従うと、絶対にそっちが正解なんです。自分の判断で外したことが1回もないんですよね。

――いわゆる「持ってる」みたいなことですかね?

持ってると思います(笑)。例えばコロナ禍で2020年の2月末からライブができなくなりましたけど、お仕事という意味での僕の需要が一旦停止みたいになったわけです。でも、ちょうどその直前から「YouTubeでもやろうかな」って準備を始めていて、いろいろシステムを構築し始めていたタイミングでコロナの影響で一気にいろんなことが止まって。だから、僕ミュージシャンの中で配信とかを始めたのは相当早かったと思います。ゴールデンウィークにYouTubeで「今は外に出ないで家で僕と遊ぼうぜ」ってことで24時間ドラムを叩くっていう企画をやったりしてましたから。今も毎日配信を夜の9時からやっています。そこから派生する仕事も生まれたし、僕はいろんなことに関してタイミングがいい系のオレンジなんです(笑)。

■SIAM SHADEに入ったことによって、吸収しなければいけないプレイや音楽性がいっぱいありました

――なるほど。ところで少し話が戻る形になりますが、SIAM SHADEのメジャーデビューが1995年。当時、「ものすごい実力のバンドが現れた!」ってなっていましたよね。

ソニーレコードからデビューしたんですけど、社内では「かっこいいバンドだけどドラムがヤバい」って言われていたみたいです(笑)。悪い意味での「ヤバい」です(笑)。それは何年も経ってから聞かされた話で。でも、SIAM SHADEに入ってからいっぱい頑張って、基礎練習もたくさん重ねるようになりましたね。それまでの僕のルーツには全くなかったプログレとかも聴くようになりましたから。SIAM SHADEに入ったことによって、吸収しなければいけないプレイや音楽性がいっぱいありました。

――プロのドラマーとしての最初のスタートラインがSIAM SHADEへの加入ということですかね?

そういうことになりますね。SIAM SHADEのメンバーは全員僕よりも学年が1個上なんです。超体育会系のバンドだったので、なんかあるとだいたい僕に矛先が向いてました(笑)。「年下のくせに!」って。今じゃ考えられないですよね(笑)。でも、年齢の差は埋めることができないから「プレイで納得させるしかない」と思って、『SIAM SHADE Ⅱ』っていうメジャー1stアルバムで一応メンバーを唸らせることができたというか。

――メンバーではありつつも、修行の場みたいな感覚がありました?

ありましたね〜。特に最初の頃は。『SIAM SHADE Ⅳ』辺りから自分の中で余裕が生まれた印象があります。楽しくいろいろやれるようになったというか。

――SIAM SHADEはヒット曲もたくさんありましたし、当時のバンド少年少女たちに与えた影響も絶大でしたよね。

今、一線で活躍されている若い作家さんやプレイヤーの方々が「僕の音楽の始まりはSIAM SHADEなんですよ」って結構言ってくださるんです。そういうみなさんからお仕事をいただくこともすごく多くて。それは本当に嬉しいことですね。

■T.M.Revolutionのバックバンドが社会人1年生の始まりでした

――SIAM SHADEは2002年に解散しましたが、その後の活動に関しては当時、どのように考えていましたか?

ボーカルやギタリストは楽曲提供やソロ活動ができるけど、僕はドラムしか叩けない、という考え方だったので、「どうしようかな?」って思っていたところへ、西川貴教さんが「よし! ウチ来るか?」って声をかけてくれたんです。そこからT.M.Revolutionのサポートドラムをさせていただくことになりました。それこそそこからが社会人1年生の始まりですよ。ちょうど30歳の時です。

――人生のひとつの節目ですね。

そうでしたね。SIAM SHADEの亡くなったマネージャーの中村新一という育ての親みたいな方がいるんですけど、新一さんが当時僕とKAZUMAに「お前ら覚えておけ。絶対このまんまでは生きていけねえからな」って言ったんです。僕が26、27歳で調子に乗っていた頃です(笑)。「男は30歳になるタイミングで自分の人生を振り返るタイミングが必ず来る。その時に“自分は何をしたかったのか? 何をしなきゃいけないのか?”ってよく考えて生き方を定めていかないとお前ら絶対に生きていけねえからな」って説教されてました。その時は軽く聞き流していたんですけど、SIAM SHADEが解散して僕が「どうしよう?」ってなったのが実際30歳になる直前でしたからね。

――所属しているバンドのメンバーとしてドラムを叩くのとバックバンドのメンバーとしてドラムを叩くのではかなり違いますよね? 

そうでしたね。ある日、バンマスに「淳士くん。今日、リハ終わったらご飯行こうか」って言われたんです。それで行ったら「淳士くんはリハーサルを練習だと思っていないか?」と。「えっ? 違うんですか?」と言ったら「ああ、やっぱりな」と。「それは大きな勘違いだよ。淳士くんはリハの初日に100%できてなきゃいけない。リハ期間はそれを更なるクオリティにしていくための時間であって淳士くんの練習の場ではないんだよ」って言われて「う、ほんとだわ。その通りだ」と思いました。それからはちゃんと準備していくようになりました。当たり前のことなんですけどね。

――他にもGACKTさん、Acid Black Cherry、Sound Horizon、Linked Horizon、luzさん、HYDEさんとかたくさんの現場を経験されていますよね。

GACKTの仕事を初めてした時、僕はT.M.Revolutionという社会しか知らなくて。だからそこでまたGACKTという社会を知って「社会っていろいろあるんだな」って勉強になりました。T.M.RevolutionとGACKTの仕事が被っていた時期もありましたね。

――セッションプレイヤーは複数の現場を抱えて、その日毎に完璧に対応してプレイスタイルを変えたりもしますけど、ものすごいことですよね。

僕らって、結局そういうのが得意なんですよね。特にバンドってそのバンドの醸し出すムードを演じるところがあるじゃないですか。そういうものを演じつつドラムを楽しんで叩くっていうのを僕は何よりも大事にしています。逆に僕が戸惑うのは「アリーナでライブやった次の日にセッションでキャパ30人のライブハウス」っていうようなパターン(笑)。でも楽しいです。いろんな環境でやれるなんて幸せですよ。SIAM SHADEが復活してツアーをやっている時にAcid Black CherryとSound Horizonもツアーをやっていて。その時は僕のオレンジカモフラージュ柄のドラムのフルセットが2台では足りなくなって、3台目をパールにお願いして作ってもらって、僕の3台のフルセットが全国を駆け巡っていました。そういう時期もあれば、急に何もない時期もあったり。

――やはり波はあるでしょうね。

そうなんですよね。波というか、GACKTの仕事をやっていた頃にテニス肘っていう病気になって。ステロイド射ちまくって、遂にはお医者さんに「これ以上はステロイドは打てない」と言われた時は本気で「引退かな?」って思いました。そしたらそこから2ヶ月、僕がサポートで関わってるアーティストが全て準備期間でお休みになり、僕の一切のお仕事が止まったんですよ。それで2ヶ月たっぷり療養できたことで厄介なテニス肘も完治! そういうところも持ってるなと(笑)。

■「かっこいい!」って言ってもらえたら全ての努力と苦難が報われます

――サポートドラムの仕事をしつつ、ご自身のバンドであるBULL ZEICHEN 88、SIAM SHADEのギターのKAZUMAさんとの戦国時代-The age of civil wars-の活動も続けていますよね。

BULL ZEICHEN 88はもう15年になりますね。とにかく長く続くバンドをやりたかったんです。

――戦国時代は、最初は正体を明かさずにイラストでの活動だったり、かなりユニークなスタイルのバンドですよね。

戦国時代は最初「レコーディングだけ手伝って」って言われていたんです。やってみたらめちゃめちゃ曲がいいし歌も上手い。でもドラマーがいなくて、KAZUMAが「ドラムが決まらないからこのまま始めようと思う」って言いだして。僕、なんか知らないけどKAZUMAを放っておけないところがあるんですよ。だから「じゃあ僕がやるから、ちゃんとドラムがいるバンドにしようよ」っていうことになりまして。

――ドラムプレイの匠、職人としての喜びって、どのようなところにあると感じていますか?

僕が叩いた後に「かっこいい!」って言ってもらえたら、全ての努力と苦難が報われます。「かっこいい!」ってそれ以上の誉め言葉はないんですよ。「かっこいい!」の中には「上手い」も含まれているし、いろんなことが含まれている最上級の言葉。「上手い」だけの人は「かっこいい!」とは言われないんです。でも「かっこいい!」には「上手い」も含まれていると思ってるので言われると嬉しいです。だからそれを言われるプレイを心がけているというか。そして僕はライブなんです。音とパフォーマンスの半々で勝負しているので、「とにかく僕をステージに上げてさえくれれば彩りますよ」っていうのを売りにしていて。

――今後のキャリアに関して何か思い描いていることはありますか?

僕はずっと“良い加減に いいかげんに”っていうのをスローガンに掲げてるんです。プライベートも仕事もあまりにも視野が狭く没頭し過ぎるとどこかがおかしくなってくる。だから何かとちょっとゆとりを持ってやれるくらいでありたいです。それはスケジュールにしても。今はまだ体力の衰えを感じることは全くないんですけど、とはいえ10年前とかの過密スケジュールはしんどいと思うんです。だから“良い加減にいいかげんに”で全てのことに取り組んでいきたいです。それは決して手を抜くっていうことではないですよ。僕はステージに上がったらスーパーマンに変身するんで(笑)。その自信がなくなったら引退ですね。

取材・文=田中大