故・井上ひさしの作品の数々を上演している、こまつ座。旗揚げする前、しゃぼん玉座に書き下ろした夏目漱石の評伝劇『吾輩は漱石である』がこまつ座で初めて上演される(2022年11月12日〜11月27日。紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA )。明治43年、持病の胃潰瘍のために転地療養していた伊豆・修善寺の菊屋旅館で、夏目漱石は妻・鏡子のいる前で「げえっ」と声を上げて吐血した。ほとんど死にかけていた漱石をなんとか助けようと、別室にいた医師たちはカンフル注射を立て続けに打ったという。30分ほどを経て漱石はどうにか意識を取り戻す。“修善寺の大患”と呼ばれるこの出来事は、その後の漱石に大きな影響を与えた。漱石が意識を失っていた間に、夢の中で漱石作品の『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『薤露行(かいろこう)』『こころ』などの登場人物たちが集まって何やら繰り広げていたのだ。こまつ座ではおなじみ、演出の鵜山仁に作品について聞いた。


――こまつ座さんで『吾輩は漱石である』が上演されるのは初めてだそうです。そんな宝があったのかとうれしくなりました。お声がけがあったときはどんな思いでしたか?

鵜山 変な台本、かなり風変わりな作品で、チャレンジングだなぁと思いましたね。何が書いてあるかわからなかったけれど、なんか面白そうだなと。それで久しぶりに漱石を読み返したら、そもそも漱石自体がそんなによくわかる作家じゃなかった(笑)。そんなこんなでいろいろ発見があって、漱石と井上ひさしさん、お二人の問題提起にフォーカスすれば、温度の高い芝居になるんじゃないか、今はそう思っています。

『吾輩は漱石である』稽古場より

『吾輩は漱石である』稽古場より

――変な戯曲だなと思われたところを教えていただけますか?

鵜山 うん、修善寺の大患という30分ばかり臨死状態に陥っていたときにどういう夢を見たかというのが戯曲の大筋なんですけど、脈絡があんまりないんです。漱石の作品世界とか井上さんの悪戯だとかいろいろなものが渾然一体になっていて、これらをどういうふうに整理したらいいのか、整理しない方がいいのかというところで、なかなか難物だと思っていた。種明かしをすれば、育英館開化中学という中学校の教員控室が夢の舞台なんですけど、先生たちと不在の校長先生との関係が一つ見えてきた気がして、これで何とかなるなと。人事不省の漱石=不在の校長先生が手紙という形で顕在化したり、顕在と不在の間を行ったり来たりしてる。そこに妻の鏡子さんが不思議な校長代理的な存在に化けて出てくる。あとは『坊っちゃん』、『薤露行』の「ランスロット」、『三四郎』、『吾輩は猫である』の「縫田針作」なんていう登場人物たちが、みんな人生半ばで志が折れて、この先どうやって生きていけばいいんだという状態で出てくる。その姿自体が人生の反面教師として学校のシンボルみたいになっている。そう考えればそんなに難しい、わかりにくい話じゃないんですよ。

――ある意味でファンタジーの部分がすごく多い作品ですよね。

鵜山 それも発見だったのですが、幽霊とか夢の話というのは観客席に直接語りかけても大丈夫。つまり舞台の上の相手役だけが相手役ではないから、平気で客席にまで対話の対象を広げられる。未来の観客とか心の中の聞き手とか、登場人物たちの想念みたいなものと自由なコミュニケーションができるという特性があるんですね。

鈴木壮麻と、右から若松泰弘、木津誠之、平埜生成

鈴木壮麻と、右から若松泰弘、木津誠之、平埜生成

左から賀来千香子、石母田史朗、木津誠之、若松泰弘

左から賀来千香子、石母田史朗、木津誠之、若松泰弘

――井上さんは新劇的なお芝居の中でも、演劇的な実験をすごくされていますよね。その中でもちょっと珍しい感じの作品だったりするように思いました。

鵜山 そうですね。夏目漱石の作品をまったく知らない人はどう参加したらいいんだろうという危惧はややありましたね。漱石を読んでいる人でも、このフレーズはどこから引用されているんだろうということがアバウトにしかわからない。引用元はいっぱい散りばめられているんですけど、結構玄人好みなんです。また漱石と奥さんとの関係が夢の中でねじれて現れる。そこは客席にわかりやすい形で出てくるので、それを軸にしてやっていこうかなと思っているわけですが……最初に話した先生たちと不在の校長先生との関係、校長イコール夏目漱石なのか、井上ひさしなのかはわからないですけど、そのあたりが校長先生と先生たちの関係に反映されてるという仕掛けがある。しかも教師の資格、教える資格のない先生たちがいて、教わる資格のない学生が二人いるというのも一つの仕掛けなんですよね。マイナスの符号がたくさんついていることが、実は反面教師、反面生徒としての教育的なメッセージになる。そのあたりで何かが伝わるといいなあと思いますね。

――こういう作品を書かれたのは、しゃぼん玉座の小沢昭一さんの存在が大きかったのかなという気がしました。

鵜山 小沢さんと井上さんがおやりになった作品で僕にも縁があるのは、これと『芭蕉通夜舟』。ともに気宇壮大というか宇宙的な広がりのある作品で、言ってみれば、言葉の射程距離が長いんです。それは小沢さんの話術のおかげだったりするのかも知れない。とにかく異様な広がりのある、現実の、目に見える人間関係だけじゃなくて宇宙との交信というか、生きていることと死んでいることの混ざり合いというか、そういう広がりに向けて発信している作品が多いのかもしれない。それが、こまつ座の時代になるとむしろ人間じみてくる。現実の中に理想の人間ドラマを置くというようになってきて、ある意味わかりやすくなるんです。そんな流れを考えると面白いですね。小沢さんという役者がやっぱり独得だったのかもしれません。呪術性のあるセリフを吐く俳優さんは確かにいるんですけど、小沢さんもそういう意味で詩人ですよね。

――作品も新鮮ですが、キャスティングも鈴木壮麻さん、賀来千香子さんとかすごい新鮮ですね。

鵜山 そう言われてみれば(笑)。彼らも舞台の上で自分の言葉を持っている、そういう表現に敏感な人たちなので、井上さんのセリフが持っている力に立ち向かえるんですね。僕はそう感じています。喜劇というのはエンターテイナーにならないといけない。この人はどんな面白いことをやってくれるんだろうという期待感みたいなものが大事で、埋まらないところを律儀に埋めていく芝居だけじゃダメなんですよね。エンターテイナーとしてやっぱり楽しませ方を知っている人たちで、僕らのような演出という立場の人間には及びがつかないような空気感を持っている。それは大変ありがたいんですよね。お二人ともダイナミックレンジが広いというか、表現の幅が広い方々なので、ややこしい芝居を組み込んでいくにも、いろいろなキャパシティがあるから、とても楽しくやっています。

山本龍二(右)と栗田桃子

山本龍二(右)と栗田桃子

――戯曲の冒頭のト書きに《文学座風の新劇世話物式呼吸》と書いてありますよね。あれはどういう意味だと鵜山さんは解釈されていますか。

鵜山 小道具に頼るとか、セリフをしゃべりながらやたら手を動かして襟元を直すとか、そういう傾向があると思われているんでしょうね。ただそれがちゃんとアンチとして機能していたという意味では幸せな時代だったのかなって。今、あんなト書きを書いてもよく意味がわからないですからね。アンチ新劇という言葉自体がぴんとこない。

――今は新劇も小劇場もありませんよね。新劇という言葉にもあまり意味がないかもしれない。

鵜山 そうですね。劇団四季も新・新劇って言われていましたよね? なにしろ新劇に対してアンチか新かという時代だから、古きよき時代ですね。

――こまつ座さんの作品はどれも財産演目ばかりですが、こうやって新作みたいな形で出てくると、やっぱりファンとしてはうれしいです。演出家としてはいかがですか。

鵜山 井上麻矢さんに聞いたのかな、この作品は結構演出者がやりたがるんですって。怖いものやりたさというのかな。ただなかなか実現しなかったらしいんです。それに今どき、作家の評伝もの自体が微妙な時代じゃないですか、本を読まなくなったから。それこそ時間を使って考えないと、こういう世界は近寄ってきてくれないですね。効率、効率でやっていると、なかなか近寄ってきてくれない世界。ある意味コロナの反作用みたいなもので、自宅待機で充実した時間を過ごしたような、いい意味で無駄な時間がないと発酵しないところがあるわけです。効率だけじゃない世界。そのあたりを井上さんは書いていらしたし、ここにきてたまたま出会ったわけですけど、やっぱり目先のことばかり考えないで、100年、1000年くらいのスパンで世界とか人間を見ていかないとダメだなと思っています。そのスパンをどう生きるかということなんですよね。コロナとかウクライナ侵攻とか、いろいろなことがありますけど、生きていく射程ということで言えば目先のことだけじゃなくて、眼に見えているものだけじゃなくて、夢も現実も、過去も未来も、すべて交錯しているような時空と対峙する。そんな右往左往を味わっていただければと思います。

『吾輩は漱石である』稽古場

『吾輩は漱石である』稽古場

取材・文:いまいこういち