SalyuやYEN TOWN BAND等の、小林武史プロデューサー関連のアーティストのレコーディングやライブ。デビューから現在まで四半世紀不動のメンバーで続く、ホフディランのサポートバンド「BEST3」。デビュー直後から解散までと、再始動から現在に至るまでプレイし続けている3ピースバンド、syrup16g。
その他、小西康陽プロデュースの一連の仕事、椎名林檎、小泉今日子等々、多数のアーティストをサポート。最近では、2021年秋から2022年春まで続いた、宮本浩次の47都道府県ツアーが記憶に新しい。tobaccojuiceやplenty、宇宙まおでプロデューサーとしての実績もあり。
キタダマキ。まさに「バンドの音を支える」ベーシストとして、多くのミュージシャン/プロデューサーから、長年にわたって絶大な信頼を寄せられるこの人のキャリアを訊きたくて、インタビューを申し込んだ。ベーシスト・キタダマキの歩みをばっちり知ることができる数少ない貴重な資料である上に、渋谷系当時のシーンの舞台裏などもわかる、極めて興味深い話になった、のですが。
キタダさん、こちらの趣旨を汲んてくださって、漏れや間違いがないようにしっかり準備して来て、細部に至るまで、自らのキャリアを振り返ってくれました。なので、こちらも、「この話もお願いします」「あ、これもぜひ」と遠慮なく質問を足していった結果、話がsyrup16gに達する前にキタダさんの次のスケジュールの時間に。そこでいったん止めて、そのあとのキタダさんの仕事が終わってからまた集合して、syrup16gへの参加から現在までを訊く──という、計5時間の超ロングインタビューになったのでした。
キタダさん、話しながら「ここ、要らなかったら、切るか圧縮するかしてください」と何度も配慮の言葉をはさんでくれたのですが、お言葉に甘えて「ここは使いたい」という箇所だけ起こしてみたら、3万字超え。そこから「どうしてもここは残したい」というふうに、約半分に圧縮しても、通常の「匠の人」の倍の量。そこで、当連載担当者に相談し、前後編に分けてお届けすることになりました。
前編は子供の頃の楽器・音楽への目覚めから、1990年代中盤の東京の音楽シーン、当時のいわゆる「渋谷系」のムーヴメントの中で、プロ・ベーシストになって行った頃までの話を中心に構成しました。では、どうぞ!

──最初に音楽に興味を持ち始めたのは?

音楽というより、バンドでしたね。昭和の子供だから、普通に同級生と遊ぶわけですよ。かくれんぼ、鬼ごっこをして、カブトムシ獲って、プール行って。と同じ様に、レコード聴いて、カセットを集めて、「バンドってかっこいいんじゃないか?」ってなった。…小学校に上がる頃、隣に中学生のお兄さんがいたんですが、いい人で、よく遊んでくれて。部屋に行くとマンガとかいっぱいあって。『マカロニほうれん荘』とか、ご存知ですか?

──はい、僕もどっぷりその世代です。

あのマンガ、レッド・ツェッペリンとか、当時としては早い感じでセックス・ピストルズとか、よく描いてたじゃないですか。

──はいはい。あとで「あ、『マカロニ』に出てたバンド、これか」と知りました。

当時の女子中高生に大人気だったのが、クイーンとキッスとベイ・シティ・ローラーズで、どれも『マカロニ』に出てて。最初はそれですね。マンガで知って、そのお兄さんがベイ・シティ・ローラーズのレコードを持っていて、聴いて。…で、彼がベースを始めて。隣家から、単音で♪ドゥドゥッド ドゥドゥッ♪って聴こえるから、それでベースというものを知って、のちにバンドをやろうっていう時に、自然とベースになりました。

──当時は『ザ・ベストテン』全盛期ですが。

観てました。だからか、当時の自分の捉え方としては、アイドルもYMOも歌謡曲。洋楽は全部ロック。ぐらいの雑さ。まあ小学生だから…。YMOの「RYDEEN」が1980年で、ジョン・レノンが射殺されたのも1980年。その亡くなる前に、ビートルズのオランダ編集のベスト盤を買って、ずっと聴いていたのは憶えてるんですけど。リアルタイムで深くハマったっていうのが、ほとんど無いんですよ。YMOもレコード持ってたけど、最近になって、同世代のYMOフリークと話をすると、「俺、この人達ほど入れ込んではなかったな」って思う。…同世代の、東京出身のミュージシャンって、そのへんが全然違うじゃないですか。

──どんな中学生だったんですか?

…よくいるタイプ。勉強はまあまあ、スポーツもそこそこ。ちょっと不良っぽくもある。

──いわゆるヤンキー?

いや、そんなに熱心な感じではなかったですけど。…まあいいじゃないですか。

■初めて観に行ったライブハウスはLIP CREAM

──(笑)ご出身はどちらなんですか?

静岡県の下田です。

──最初にやったバンドはどんな音楽を?

そういう子がバンドをやるってなると、やっぱりリーゼントがかっこいいな、と。それで(横浜)銀蝿とかキャロルをやりました。先輩がバンドやってるの見て、できそうかなと。で、中1になって、バンドをやってみたら、楽しかった。演奏が。

──ベースは独学?

街に楽器屋さんってひとつしかなくて、前を通るついでに、エレキギターを眺めているわけですよ。カタログだけもらって帰ったり。そのうち顔も覚えられて。それで、ベースとアンプと教則本を買って。当時、タブ譜が載ったスコアが買えるようになったので、それを見て弾きながら「あ、こういうことか」と。

──初ライブは?

練習してただけでしたね……いや、違う。一回やった。友達のお母さんがクラブを経営していて、そのお店の休みの日に、クラスの友達を集めて。中学生で保護者付き(笑)。

──高校からはどうなるんでしょうか。

下宿するんです、三島市の私立高校に行って…某大学の附属校。

──ああ、ありますね。

進学組から、スポーツ推薦組まで、いろいろいて…下宿先の先輩がハードコア・パンクが大好きで、毎月『宝島』と『フールズメイト』を買って、下宿から3キロ離れた電器屋の片隅の輸入盤コーナーに行って、The Exploitedのレコードを買うような人で、「あ、こういうのがホンモノなのかな。イケてるのかな」と。高校生のコピーバンドはBOØWYとREBECCA全盛期だったんだけど、よりもこっちなのかな、と。彼が「パンクとは」みたいなことを教えてくれるわけですよ。そこで『マカロニほうれん荘』以来のピストルズとか、クラッシュとか、ダムドを好きになって…「パンク・サブカル時代」ですね。

──その先輩は自分では楽器は?

やってました。だから一緒にバンドやりました。彼がベースで、俺、ギター弾いたような気がする。逆だったかな?…割とギター弾けたんですよ。…あ、リズムボックスを入手して、ひとりで多重録音して曲を作る、ということもやってた。1ヵ月ぐらいで飽きたんですけど。意外とマルチプレイヤー志向だった。…脱線しました。そのハードコアのバンド、一回だけライブやりました。沼津の公民館みたいなところ、同好の士が集まって借りて、ガラ空きの中でThe Exploitedの曲を……LIP CREAMとかもやったな。

──LIP CREAM! ほおー!

LIP CREAMは観に行ったこともある。初めて行ったライブハウスがそれですね。富士市内の。おっかねえから行きたくなかったんですけど、先輩が行こうって言うから。

──当時のハードコアのライブって、あたりまえにケガするレベルで怖かったですよね。

でしたね。…あと、高校2年の時に、パンクな友達ができる。ジョー・アルコールって…。

──えっ、友人だったんですか。今年の1月に亡くなりましたよね。

まあ、もう、付き合いもなかったんですけど…訃報はショックでした…残念ですね…17歳当時のその時、彼はドラム、三島の仲間と3人でピストルズをやっていて。「ギターやる?」「あ、おもしろそうだからやる」って。彼とはその後も遊んだりしましたね。

■THEE MICHELLE GUN ELEPHANTみたいなバンドをやりたかった(笑)

──高校卒業後は?

成績も3年時には学年上位に入れて。高校で下宿したら、派手に遊び回ることもできなくて。準進学校みたいなところだったから、繰り返し模試を受けてるうちに覚えちゃうんですよね。受験、めんどくさかったから、推薦で大学に。東京に行ければいいかと。

──そこで東京に出て、大学でサークルに?

そうですね。入ったところが良かった。そこで今につながる友人達と出会うので。…バンドは色々やりました。まず自分がやりたかったビートルズ。ブルーズ好きの先輩と一緒にやったり。他にはザ・スミスのカバーをしているバンドがいたり…。

──その頃はギター? ベース?

ベース。オリジナルの曲をやる人もいて、誘われて一緒にやって。音楽的センスのいい集団だったんですよ。で、フリッパーズ・ギターのドラム(荒川康伸。ファースト・アルバムのリリース後に脱退。のちにCorneliusのサポートも務めた)が入ってくる。「今度CD出るんで」って見本のカセットテープをくれたんですよね。それで、どうもネオアコってものがあるらしいと。先輩にも詳しい人がいて、リアルタイムで日本のネオアコブームの訪れを知る(笑)。…他に大学では、のちのLittle Tempoのドラム、audio activeのギター、LD&Kの社長等いました。

──えっ、大谷秀政社長? すごいサークルですね。

グランジが流行りだしたのもその頃だし、パンク、ニューウェイブ、スカ、ダブ、ロックステディー、ジャズ、いろんな人がいろんな音楽を一気に教えてくれるという。で、その中で、自分は「Modかな」ということになるんですが。「The Who。THE JAM」と。

──それはなぜに?

ビートルズ好きの延長線上ですかね。時はもうマンチェスターブームだったのに。で、踊る方のクラブが流行る。

──ああ、そういう時期ですよね。

周りは(下北沢)ZOO、のちのSLITSに行ってた。自分は、大音量のなか酒飲んで踊るのにまるで興味無かったんだけど。みんな、それが高じてDJをやるって言い出したわけ。レゲエとか古いR&B、ソウルミュージックとかで。影響されて、ベタにモータウンとかオーティス(・レディング)とかから聴き始める。で、ブラスバンド出身でトランペットが吹ける奴とか集まってバンドでソウルをやってみたら、楽しかった。あ、それでその頃、ベースの弾き方を変えたんだ。

──どのように?

ポール・マッカートニーみたいに、高めにベースを持って、手でミュートして、ピックで下から上に弾いていたのを、指弾きを取り入れて。その方が、らしいかなと(笑)。結果、自分に合ってた。

──ライブハウスに出たりとかは?

OBの先輩とずっとやってたバンドで、下北沢ロフトとかに出てました。その先輩は、ビートルズやトッド・ラングレン、ザ・バーズ、ドゥルッティ・コラムとかが好きで、オリジナルの曲をやっていて。すごく勉強になったし、曲も良かったんだけど、何か違うなと…。…今思えば俺、たぶんその頃、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTみたいなバンドをやりたかったんですよ(笑)。

──(笑)なんですか、いきなり……ああ、そうか。モッズっぽいし、スーツでスタイリッシュだし、激しいし。

だいぶ後に、初めて深夜のテレビで観た時「あ、これか…!」と。Dr.Feelgood、ルースターズに連なる感じが…。ま、そういうことです(笑)。…話を戻すと、そろそろ卒業だしと言って、そのバンドをやめるんですが、今度は別の、ミロスガレージでDJをやってた先輩に、「黒田マナブさんのI-SPY再始動で、メンバーを募集してるから、やらない?」って言われて。

──うわ、東京モッズのボス。

「なんだかすごそうな話だけど、いいんですか?」「ギャラも出るよ、クラブチッタだよ」って言うから、まあ一回ぐらいいいか、と思って行ったんですけど。マナブさんがギター&ボーカルで、サックスとキーボードがいて、ドラムが(和田)卓造君、現WACK WACK RHYTHM BANDの。と、パーカッションが及川(浩志)君、のちに小沢健二やGREAT3でもやってた。タクゾー君とオイちゃんはアイゴン(會田茂一)の同級生なんですよ。

──ああ、なるほど!

で、てっきりTHE JAMみたいな曲をやると思ってたら、ダニー・ハサウェイのカバーをやると。音源を渡されて聴いたら、これが良くって。ブラック・ミュージック界で1、2を争うライブ・アルバムと言われる、ダニー・ハサウェイ『Live』の「Little Ghetto Boy」っていう、最高のベースが入った曲とか。川崎クラブチッタの『MODS MAYDAY』に出て演奏して。…その後、メンバーチェンジがあって、そこで堀江(博久)が入って来る。

──おお。どんどん揃っていきますね。

堀江がやっぱり決め手ですね。彼が入って、演奏の精度も上がって。…そろそろ大学も出るし、就職しなきゃいけないかなとか思ってたんだけど、バンドが面白くなっちゃって。それで作った新しいバンドが、STUDIO APES。

──ああ、そこで。インストでしたよね。

インストで、ジャズ・ファンク、ソウル・ジャズをやろう、ということで。のちに女性ボーカルありで、CDを1枚作りました。そのSTUDIO APESにタクゾー君とオイちゃんがいたから、アイゴンから声がかかって。EL-MALOを始めるから、ライブの時のバンドをやらないか、って話で、何度かやって。EL-MALOが(イギリスの)Mo’Waxから音源を出してて、その後トイズファクトリーと話が決まるんですよ。それで、ファーストアルバムのレコーディングにも、STUDIO APESで何曲か参加して。アイゴンとAPESでセッションしたのを録って、柚木(隆一郎)さんがリミックス、みたいなことをやって。