室屋義秀のなかでうまく回っていた心身の歯車は、ずいぶん前から、少しずつ狂い始めていたのだろう。

 レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ第5戦。ロシアで初めてレッドブル・エアレースが開かれた歴史的な一戦で、室屋はブービーの13位に沈んだ。

 今季に入り、第2、3戦で連勝し、チャンピオンシップポイントランキング(年間総合順位)でもトップに立っていた室屋からは、考えられない惨敗である。

 これにより、室屋はチャンピオンシップポイントランキングでも、第5戦を制したカービー・チャンブリスにトップの座を譲り、2位に後退。1位から4位までがわずか2ポイント差のなかにひしめく、大混戦に飲み込まれてしまう結果となった。

 こんな――あまりに脆く、あまりに弱い――室屋を見るのは、久しぶりのことだ。

 今回と同じラウンド・オブ・14での敗退は、今季開幕戦でもあったことだが、当時は明らかなエンジンの不調という問題を抱えており、それを考えればやむを得ない結果だった。もちろん、エンジントラブル自体をミスと指摘することは可能だろうが、ことパイロットに関していえば、むしろ”負けてなお強し”を印象づけた開幕戦だったと言ってもいい。

 ところが、今回の第5戦はまったくいいところがないまま、あっけなく敗れ去った印象しか残っていない。少なくとも今季の室屋には、まったく見られなかった姿である。

 実は今回のレースで室屋がラウンド・オブ・14で敗れた裏には、天候悪化の影響があった。

 飛行機を用いるレッドブル・エアレースでは、レースエアポートとレーストラックとの間を移動するための空路が確保されている必要がある。万が一、それが断たれ、着陸できなくなってしまえば、いずれ燃料切れとなり墜落する恐れがあるからだ。

 そのようなリスクを避け、パイロットの安全を保証するため、仮にレーストラック上の天候は問題なくとも、レースエアポートとの間の天候が悪化して戻れなくなる可能性がある場合には、レースは中断される。あるいは、代替の着陸地が用意されることになっている。

 だが、今回のラウンド・オブ・14では、室屋がレーストラック脇でフライト順を待っている間、レースエアポートへの帰路が雲によってほとんどふさがれるという事態が起きていた。実際、室屋は上空を旋回する間、「これでは帰ることができないのではないか」と不安を抱えていた。

 結果的に、室屋はフライト後、レースエアポートにたどり着くことができた。だが、フライト直前には代替地への移動も考えなければいけないほど、切迫した状況に直面していたのは事実であり、室屋にしてみれば「命の安全を守ることが最優先であり、レースどころではなかった」のである。

 なるほど、これでは好結果を期待するのは難しい。考えられない惨敗にも同情の余地はある。

 しかし、本来の(徹底してメンタルトレーニングを重ねた)室屋であれば、こうした状況に直面したとしても、「無理をせず、今できる範囲内のフライトに徹しよう」と、割り切ってレースに臨むことができたはずだ。

 ところが、実際の室屋は「レースに集中できなかった」結果、風向きの変化に対応できずにパイロンヒットしてしまうと、焦りから「少しでもタイムを縮めようとして」、さらにインコレクトレベルのペナルティを犯す失態を演じてしまったのである。

 レースに集中できなかったことは仕方がないとしても、焦りから平常心を失ってしまったのでは、もはや勝ち目はない。自滅に近い形で敗れ去る姿は、およそ(少なくとも最近の)室屋らしくなかった。

 また、前日の予選を終えたとき、室屋がこんな話をしていたのも気になった。

「初日の公式練習のときに、(頭抜けたトップタイムを記録して)今回のレースは簡単だなって思ってしまった。周りもよく見えていたし、負ける気がしないというか……、そんな感じがあって、なんかそこからおかしくなってきた」

 今季第2戦から第4戦まで自身初となる3戦連続の表彰台に立ったことで、室屋のなかに、知らず知らずのうちに驕(おご)りが生まれていたのかもしれない。室屋自身、そんな自分に気づき、恐れを抱き始めていたのである。

 だが、そんな傲慢さの芽生えをうかがわせる一方で、室屋はまた、予選のタイムが伸びなかったことについて、こんなことも話している。

「無意識にほんのちょっと力が入ってしまい、(旋回のときに機体を)振り過ぎてしまう。振ったほうがゲートの角度が楽になり、(パイロンヒットの確率が低くなって)安全なので、自分ではそんなつもりはなくても、どこかで安全にゲートに入ろうとする意識が働く。だから、(操縦桿を操作する)腕に力が入って動かし過ぎてしまうんだと思う」

 今度は傲慢さとは対照的な、いわば、守りに入ってしまう消極性である。

 チャンピオンシップポイントランキングでトップに立ち、目標だった年間総合優勝が現実味を帯びてくるにつれ、少なからず現在の立場を守りたいという気持ちが生まれてしまうのだろう。チャレンジャーとして果敢に勝負していく姿勢が薄れ、守りに入ってしまったのでは、室屋らしさが半減してしまうにもかかわらず、だ。

 いずれにしても、13位という結果以上に、”らしさ”が失われていることが気になった。

 誰が相手であろうと、負けることなど想像できないほど、次々に対戦相手をねじ伏せる。そんな圧倒的な強さで頂点に立ったアメリカ・サンディエゴでの第2戦をピークに、室屋の強さを支えていた心身の歯車は、少しずつ狂いが生じていたのだろう。

 振り返ってみれば、それは当然のことでもある。

 第2戦を制したことで、続く第3戦、すなわち地元・千葉で行なわれるレースでは、かつてないほど大きな重圧が室屋の肩にのしかかった。

 ファン、マスコミ、スポンサー、すべての人間が期待したのは、地元レースでの連覇である。室屋はフライトトレーニングに精を出すと同時に、機体が活動拠点である福島に届けられてからは、寸暇を惜しんで改良にも取り組んだ。

 想像を絶するプレッシャーをはねのけ、見事に地元レースでの連覇を成し遂げた後も、祝賀会が続き、一息入れることすらままならない。次戦への準備もそこそこに、ハンガリー・ブダペストへと飛び立たなくてはならなかった。

 そして、ブダペストでのレースから3週間後、大きなダメージを負っていた室屋の心と体は、ついにカザンで悲鳴を上げた。

「サンディエゴからほぼ休みなしでここまでずっとやってきて、自分では気がつかない意識下の部分ではあるけれど、心身ともにやっぱり疲労はあると思う」

 室屋がそう認めたように、平常心を失い、驕りが生まれ、守りに入ってしまったのも、つまるところ、積み重なった疲労によって心も体もむしばまれていたからに違いない。(いずれも、ごくわずかとはいえ)思考が低下し、体の反応も鈍くなっていた室屋に、もはやいつもの”らしさ”を発揮できるほどの余裕はなかったということだろう。カザンでの3日間、日を追うごとに室屋のフライトは精彩を欠いていった。

 もちろん、年間総合優勝という目標達成のためには、今回の第5戦で0ポイントに終わったことはあまりに痛い。

 室屋は「年間8戦のうち、2戦くらいはこういうことがあると想定しているので」と冷静に結果を受け止めてはいるが、「年間総合優勝するために重要なのは、安定して飛び続けること」であるのも、また事実。第5戦終了時点で0ポイントのレースが2戦もあることは、やはり目標達成のためにはかなりの痛手である。今季残すは3戦のみ。これから先は、ひとつのミスが取返しのつかない致命傷となりかねない。

 とはいえ、室屋が自身に起きている異変に気づくきっかけになったとすれば、今回の惨敗も決して無駄ではなかった。幸運にも、ポルトガル・ポルトで開かれる今季第6戦までは、1カ月以上のインターバルがある。今回のレースで払った大きな代償を取り戻すためには、この1カ月間を存分に有効活用しなければならない。室屋が語る。

「このところ忙しくて、フライトトレーニングが減っているところもあったので、そこはしっかりとやりたい。この後、ちょっと間が空くので、十分な休養を取ることも含めて、フィジカル的にもメンタル的にもいいセットアップができればいいなと思う」

 理由はともあれ、今の室屋にサンディエゴで他を圧倒した強さが見られなくなっていることだけは間違いない。年間総合優勝へ向け、ここをどう乗り切るか。今がまさに正念場である。