来日してから約3週間。ルーカス・ポドルスキは今、日本にフィットしようと懸命なようだ。

「結構、日本語を話したりするんですよ。ポルディ(ポドルスキの愛称)は発音がいいのか、簡単な日本語だと日本人が話しているみたいです。まじめで、自身の得点について質問されたりしても、『まずはチームの勝ち点3が大事で、得点は二の次』という話をしています」

 こう明かすのは、ポドルスキの専属通訳をつとめる村上範和氏(35歳)だ。横浜フリューゲルスジュニアユースから横浜マリノスユースを経て明治大学に進学。昨季末まで約15年間国外でプレーし、今回の通訳就任を機にスパイクを脱いだ。今や多くのサッカー少年がJリーグを経験しないまま海外でのプレーを志す。ドイツにはそんな日本人選手が多くおり、村上氏もそんなひとりだった。

 今回の通訳就任は、マリノスユース時代の恩師がヴィッセル神戸の強化本部長を務めていることが直接のきっかけだった。就任が決まると、ポドルスキは3月にドルトムントで行なわれた自身の引退試合に村上氏を招待。その後はポドルスキの実家で家族との顔合わせまで行なったという。

「おそらくは、遠い日本で身の回りの世話までを託さなくてはならないことから、人物として信頼できるか、見極められたんだと思う」(村上氏)

 今回の日本移籍に関するポドルスキの本気度が伝わってくるエピソードではないだろうか。

 ところで、そんな村上氏のここまでの歩みは、ちょっと想像を絶するものがある。まず2002年、大学3年のときにブラジルでのプレーを目指して現地に渡った。パラナ州のクラブと契約まであと一歩のところまでこぎつけるも、ビザの関係で断念。もともとは欧州でのプレーを目指していた村上氏は、その後周遊チケットを利用してイタリアとドイツに渡る。ドイツではトライアルを受けてザールブリュッケン(当時は3部相当)のツヴァイテ(2軍)への入団許可を得るが、代理人に不当な金額を要求され断念、いったん帰国した。

 帰国後はサッカーと並行してプレデターフットサルクラブ(バルドラール浦安の前身)でプレー。フットサルで代表を目指そうかというほどのめり込んだが、04年6月からはアルビレックス新潟シンガポールに2シーズン在籍。その後、ローカルのクラブを3つほど渡り歩いた。

 09年の夏、当時の代理人がイングランド人だったことから、南アフリカへの移籍話が浮上した。ほとんど情報のなかった南アフリカだが、まずは練習参加で単身乗り込んだ。現地で見たものは、逆に衝撃的だったという。

「ホテルもきれいだし、寒い時期でもきちんとお湯が出る。道路も舗装されているし、ヨハネスブルクなんてすごい都会です。もちろん治安は悪いんだけど、それでもこれならいけると思った」

 南アフリカでは3シーズン、プレーした。その間には2010年W杯もあり、日本戦のテレビ中継に呼ばれ、中田英寿や北沢豪らと出演している。

「南アのリーグ全体が獣(けもの)みたいな選手ばかりで、練習から激しくて、この時代は脛(すね)とか毎日血だらけでした。だからその後、ドイツに行ったときは全然楽でした。そんな世界なのに、すごい選手がいっぱいいるんですよ。宝石箱みたいな世界、『キャプテン翼』の世界です。相手が塊で突っ込んできているのにフワーンとかわしたり、ロナウジーニョみたいに見たこともないようなフェイントをしたり」

 11年3月、南アで所属した2つ目のクラブ、ダーバンという都市にあるレイモンドビル・ゴールデン・アローズで監督が交代。ビーレフェルト(ドイツ)を1980年代から2000年代までに3度指揮したエルンスト・ミッテンドロップがやって来た。この出会いがその後の村上氏の選択を大きく左右した。SAP社の分析システムを導入するなど、緻密かつ知的にチームを指揮する一方で、試合になると叫びながら指示を出す指揮官の姿にも惹かれた村上氏は、ドイツへの思いを募らせ、ダーバンとの契約延長オプションを行使せず、ドイツに渡った。

 ドイツでは曲折を経て、当時3部のアーヘンの練習参加にこぎつけ、12〜13シーズンからの契約を勝ち取った。だが13年1月、アーヘンは破産宣告を受ける。勝ち点が剥奪され、チームは4部に降格。現実的にチームを去らねばならなくなった。この時、村上氏はドイツサッカーの底力を思い知らされることになる。

 まず、所属がなくなった選手は、選手協会が主催し費用負担するキャンプに参加することができた。毎週月曜日から木曜日まで、今週はデュイスブルク、今週はライプツィヒといった具合に、各地のスポーツシューレをまわり、地元チームと練習試合を行なう。参加できるのは20人で、上位リーグに所属していた選手から参加する権利が与えられ、オファーを受けて契約を勝ち取った選手は抜けていくというシステムだ。

 アーヘン所属の村上氏はかなり早い段階から参加できたが、それでも約半年間の実績しかないこともあり、オファーがあったのはせいぜい5部のチームだった。そんなとき、仲間がアドバイスをしてくれた。しかるべき登録をすれば、前年度の給料の約7割が支給され、保険や税金、年金の類(たぐい)も払ってもらえるというのだ。この”失業手当”のおかげで、村上氏は約半年間のドイツでの浪人生活を、さほど慌てることもなく送ることができた。

「このとき『ドイツやばいな』と思いました。こういうシステムがあるから、ブンデスリーガもドイツサッカーも盤石なんだな、と。さらにドイツの魅力に取り憑かれました。考えてみると、それまでいたアーヘンは3部なのに、それでもホームでは1万5000人とか2万人が入る。バイエルンと練習試合をすれば3万人も入る。勝利給も悪くない。ビジネスとしてスタジアムの使い方も魅力的だなと思いました」

 約15年間にわたる選手生活を振り返って、村上氏は次のように語る。

「僕は子供の頃からテレビですごくサッカーを見てきて、結局のところ強いチームが好きなタイプなんだと気づきました。そしてそれぞれの国に行ったとき、その国のサッカーが旬のときだったんです。ブラジルも、南アも、ドイツもそう。そういう意味で運がいい以外の何ものでもないんです。今回のポルディの話も意図したわけではないですし」

 村上氏にとって現役生活最後の所属クラブとなったドイツ5部のヒラルベルクハイムと、今回通訳を務めるポドルスキとの間には、不思議な縁もあった。

「僕がいた最後のチームが使っていたスタジアムは、ルーカスが資金を出して作ったルーカス・ポドルスキ・スポーツパークというスタジアムなんですよ! 彼の実家も近くて、その側を通ったときに『お前、ここでプレーしていたんだって?』と言われて。もう笑っちゃうような縁ですよね」

 今後も留学などの形でドイツでのプレーを志す若者は後を絶たないだろう。そのとき大切なのは、どんなことだろうか?

「ブンデスリーガの華やかさに憧れてドイツに行く人も多いと思いますけど、J1、J2に入れず直接行くような選手は、入れて5部だと思います。でも、それで現実を知ればいいし、ドイツは今世界一なんだから、ダメでも言い訳の必要はないんです。肌でわかって帰るだけでも素晴らしいこと。ただ、ドイツは成熟した国だから社会人としての振る舞いは求められる。サッカー選手は社会の中の職業で、それ以上でも以下でもないんです。あくまで社会の一員で、自分の立ち位置がわかるのがいいところかなと思います」

 プレーヤーとしてだけでなく、ひとりの社会人として。自分自身で道を切り開いてきた”海外組”がたどり着いたのは、日本では最も華やかなJ1の舞台だった。