「そりゃ、もう衝撃的でしたね」

 矢島正徳は”あのとき”のことをこう振り返る。もう10年以上も前のことだ。

 野村克也を監督に迎えて、社会人野球の強豪チームにのし上がったシダックスで投手としてプレーしていた矢島だが、のちにプロに進む武田勝(元日本ハム)や野間口貴彦(元巨人)らの間で埋没し、力を出し切れないまま引退勧告を受けた。

 だが矢島はそれを受け入れることができず、台湾やオランダまで出向き、その後もマウンドに立ち続けた。しかし26歳を迎えた2004年に「これが潮時かな」と思い、ユニフォームを脱ぐ覚悟を決めて帰国した。

「トレーナーになろうかと思って……修業しようとしていたときに、井口(資仁)さんの自主トレに来ないかって、声がかかったんです」

 アルバイトで行なっていた野球を題材にしたテレビドラマの演技指導が縁で、当時、井口が契約していたプロダクションから「アシスタントとして自主トレに参加しないか」という話が舞い込んだ。これに矢島は乗った。

 このシーズン、井口は福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の主軸として、打率.333、24本塁打、89打点の成績を残し、メジャー挑戦を表明。球団と交わした覚書に則って自由契約となり、シカゴ・ホワイトソックスに入団した。

 新天地で羽ばたく準備の自主トレは、12月半ばから沖縄で行なわれた。呼ばれるがまま那覇空港に降り立った矢島の前に現れた井口は、近寄りがたいオーラを放っていた。

「それまでも格上の選手と対戦したことはありましたし、チームメイトにプロに行ったヤツはいましたけど、井口さんクラスの選手を目の前にするなんてことはなかったですから。もう緊張しちゃって……」

 空港のロビーであいさつをすると、井口は「よろしく」とだけ言って、車に乗り込んだ。

「話しかけてくださるのですが、やっぱり別世界の人ですから。いろんな意味で距離感は感じていましたね。バッティングピッチャーもさせていただいたんですけど、イップスになりそうなくらい緊張しました(笑)」

 井口を慕ってやってきた数名のプロ選手も参加してのトレーニングが始まろうとしたとき、チーフトレーナーが矢島に声をかけた。

「見ているだけもなんだし、どうせなら一緒にやれば。今年まで現役だったんだろ」

 何を思ったのか、チーフトレーナーはユニフォームを脱ぐ覚悟をしていた矢島を”現役復帰”させたのだ。正直、どういう意図で声をかけたのかは今もわからない。ただ、矢島自身は現役への未練が体中からにじみ出ていたからだろうと思っている。

「井口軍団」の自主トレは、矢島の想像を超えるものだった。年末年始の帰省を挟んで2カ月近くにわたって行なわれたトレーニングは、これまで体験したことのないハードな内容で、最初はメニューをこなすことさえできなかった。

「一流選手がここまでやるのかって感じでした。段々と慣れてきて、回数だけはなんとか同じだけこなせるようにはなったのですが……ただ、井口さんは負荷が全然違いました。ほかのプロ選手と比べても段違いでした」

 プロ野球選手になるという夢を追いかけて、もがいていた矢島だったが、井口とトレーニングしたことによって、ある種の悟りを開いた。自分が目指していたものの前には、とてつもなく高い壁が立ちはだかっていたことに気づかされたのだ。

「なんだろう……やっぱり超えられない能力の差っていうのは感じました」

 そう思う一方で、ハードなトレーニングによって自分の体がみるみるうちに変わっていくのを感じていた。

 井口との自主トレが終わり、第2の人生を模索すべく高校野球のコーチをしていた矢島のもとに1本の電話が鳴った。声の主は、海外のトライアウトでよく顔を合わせていた独立リーガーだった。

 井口がホワイトソックスの正二塁手としてメジャーの舞台に立ってから遅れること1カ月半、矢島はアリゾナのフィールドにいた。この年に創設されたゴールデン・ベースボール・リーグ(独立リーグ)の日本人チーム”サムライ・ベアーズ”の一員として、アメリカの大地を踏むことになった。メジャーと独立リーグの差はあるが、紛れもなく井口と同じアメリカのプロ野球の舞台だった。

「なんだか不思議な感じでしたね。井口さんと同じアメリカでプレーしているんだなって思うと。もちろん、レベルはまったく違うんですけど……」

 しかし、矢島のいたサムライ・ベアーズは戦力不足もあってリーグ最下位に沈むと、そのまま解散となった。そして矢島は、今度こそユニフォームを脱ぐ決意をした。帰国後、衛星放送の映像には、ワールドシリーズのトロフィーを掲げる井口の姿があった。その映像を見て、矢島はあらためて井口との距離の大きさを感じた。

「今から考えると、アメリカ野球に挑戦といっても、そこからメジャーに行けるなんて思ってもいませんでした。あのシーズンは、野球をやり尽くすためにあったようなものです」

 その年のシーズンオフ、矢島は井口と再会した。自主トレのメンバーのひとりが、自身の結婚式に矢島を招待してくれたのだ。円卓のとなりの席に座っていたのは、井口だった。宴席で恐縮しながらも、矢島は井口にシーズンの報告をした。

「実は、僕もアメリカでやっていたんです」

 矢島の言葉を聞いて、井口は驚きながらもこう口を開いた。

「だったら、また自主トレに来いよ」

 しかし現役引退を決意した矢島は、その誘いを断った。ユニフォームから背広に着替え、不動産会社の社員として次のステージに進んでいたからだ。その後、井口はますます遠い存在になったが、二度ほど顔を合わせたという。

「就職した後、井口さんが契約していたスポーツメーカーの方と一緒に飲みに行く機会があったんですよ。その場所が僕の実家の近所で、それをメーカーの方に話したら、『そういえば井口さんの家もこのあたりだよ』って。それでブラブラしていたら、井口さんの家の前でばったり出くわしたんですよ。なんか気まずかったですね。家を探しているみたいに思われているんじゃないかって(笑)」

 そして昨年は、千葉にあるロッテの本拠地にも足を運んだ。いまにして思えば、「井口の雄姿を目に焼きつけておくべきだ」という虫の知らせがあったのかもしれない。

「いろんな人にサインをいっぱい頼まれていたので、あつかましくもメールをしたんです。そしたら通用口から入れてくださって、サインにも応じてくれたんですよね。あつかましいことを頼んでおきながらも恐れ多くて……まともに話せなかったですね」

 決して気軽に声をかけられるような存在ではなかったと、矢島は言う。しかし、口数は少ないが、その背中から伝わってくるものは大きく、そして優しかった。

 その井口が、今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを発表した。井口の引退を耳にして、矢島はあらためて「井口さんは自分にとって特別な存在だった」と振り返った。

「一緒にトレーニングさせていただいた経験は、僕の一生のなかでもホントに貴重な時間でした」

 この言葉からは、井口という男が単にプレーで魅せるのではなく、生き様を通して多くの人に影響を与えたことがうかがえる。

 ちなみに、矢島は今でも軟式球界のトップ投手としてマウンドに立っている。マウンドに立てば、40歳になる今も、全国大会でも向かうところ敵なしである。そんな矢島に聞いてみた。「井口も一線を退くことになるが、いつか軟式で対戦したいとは思わないか」と。

「そんなことできません。またイップスになっちゃいますよ」

 井口資仁の存在感は、今も矢島の前に大きくそびえ立っている。