8月2日の朝9時前――。もうすでに強い陽射しが降り注ぎ、気温が30度に達しようかという暑さのハンガロリンクは、異様な興奮に包まれていた。

「ロベ〜ルト・クビッツァ! ロベ〜ルト・クビッツァ!」

 まるで熱狂的なサポーターで溢れかえるサッカースタジアムのように、巨大なフラッグや横断幕が並ぶグランドスタンドからは大合唱が聞こえてきた。ルノーのピットガレージ前には大勢の報道陣が詰めかけ、マシンが通る動線を確保しようとチームクルーが押しのける。

 やがて時計の針が午前9時を指し、グリーンシグナルが灯(とも)ると、ルノーのガレージからエンジン音とともに黄色いマシンが姿を現した。大歓声はさらにその勢いを増し、1周のインストレーションチェックを終えたマシンが帰ってくると、大きな拍手に包まれた。

 R.S.17のコクピットに座っていたのは、ロバート・クビサ(ポーランド)。彼にとっては、実に6年ぶりの本格的なF1ドライブだった。

 ポーランドからやってきた熱心なファンたちは、この瞬間を何年も待ちわびていたのだ。

 フェルナンド・アロンソがその速さを認める逸材のクビサは、BMWザウバーで2008年に1勝(第7戦・カナダGP)を挙げ、将来の活躍が期待されていた。しかし、2011年2月に趣味で参戦していたラリーで大事故を起こし、ガードレールが車体を突き破って右腕切断も検討されるほどの重傷を負った。

 今でもクビサの右腕は40%の筋力しかないといい、自由に動かせる状態ではない。ヘッドセットのような軽いものを持つことはできるが、握手をしたり、手を振ったりという動作はすべて左手で行なう状態だ。

 事故後はWRCなどラリーを中心としたレース活動を続けてきたが、F1となると、速度域も身体にかかる負荷も何もかもが異次元となる。クビサのF1復帰は、何度か話題に上がっては消えるということが続いてきた。

 しかし、今年の春になって事態は急速に動き始めた。ルノーがクビサに復帰の可能性を持ちかけ、6月7日にバレンシアで2012年型マシンを使ってプライベートテストを実施。コンパクトで低速のサーキットとはいえ、問題なくテストをこなしたことで7月12日には高速のポール・リカールでもテストを実施して確認を行ない、ついに最新の2017年型マシンでのテストへと踏み切ったのだ。

 ルノー・スポールのマネージングディレクター、シリル・アビテブールは次のように説明している。

「2回のテストで多くの情報を収集することができ、今回のテストでは最新型マシンのR.S.17を使い、なおかつ他との比較も容易な状況で、さらに詳細で正確なデータを得ることができる。このテストの後、我々は収集した情報を慎重に分析して、今後のシーズンに向けてロバートがどのような形で競技に戻るのが好ましいのかを判断することになる」

 つまりこれは、格段に速くなった2017年型マシンでグランプリ開催直後のハンガロリンクで行なう「F1復帰に向けた最終テスト」だった。

 クビサは1時間の昼休み以外はクルマから降りることなく走り続け、計142周を走破。チームのマシン開発のためのテストプログラムを淡々とこなしながら、全体で3番手の1分18秒572を記録してみせた。コンディションが異なるとはいえ、これはハンガリーGP予選でジョリオン・パーマーが記録したタイムに0.157秒差と迫る非常にコンペティティブなタイムだ。

 彼がストレートを通過するたびに歓声と拍手を送っていたクビサ応援団たちは、午後6時のセッション終了後にもサーキット中が注目するほどの大クビサコールで彼の走りをねぎらった。1日の走行を終えたクビサは、朝一番のコースイン時にリアタイヤでピットガレージの柱を引っかけて頭上の看板を落下させたことを笑い話にしながら、現役当時のままの大らかで明るい姿を見せた。

「まず、1日の一番最初がイージーじゃなかったね。F1キャリアでもっとも大きなミスのひとつをしでかしてしまったから(笑)! ピットガレージの前にたくさん人がいたから、彼らを引っかけないようにと気をつけながらガレージを出て行ったんだけど、今年のクルマが今まで乗ってきたクルマよりも長くてワイドになっているのを忘れていたよ(笑)。でも、あれが今日1日で唯一のミスだったからね。それはポジティブに考えていいと思う」

 コーナーが連続するためひと息つく場所がなく、現役のドライバーですら厳しいハンガロリンクだが、格段に速さを増した2017年型マシンで500kmを超す距離を走っても、体力面ではまったく問題がなかったという。加えて、ピーク時は気温37度という暑さだった。しかし、これまでに経験したことがないレベルの前後左右Gにも当たり前のように対処できたとクビサは言う。

「ハンガロリンクはもっともフィジカル的にきついサーキットのひとつだし、ニコ(・ヒュルケンベルグ)も『ここで普通にドライブできれば、どこのサーキットだって普通に走れるよ』と言っていたよ。たしかにハードワークだったし、楽じゃなかった。それは隠さないよ。

 でも、1日で140周以上走ることができたし、明日走れと言われれば、このまま走ることだってできる。だからフィットネスのレベルは良好だといえるだろう。数ヵ月前に僕が『この夏の盛りにハンガロリンクで1日140周も走る』と言ったって、誰も信じなかっただろう。それだけのことができたんだから、ハッピーだと言うべきだろうね」

 右腕は不自由だが、ステアリングやコクピットには特別なアシストデバイスは取りつけず、通常どおりのマシンだった。右手の動きに制約があるため、頻繁に使用するボタン類はステアリングの左側にアサイン(割り振り)し直し、右側のボタン類は走行中にあまり使用しないものにした。ステアリング裏のシフトパドルは左手でも本来右側のシフトアップ操作ができるようになっているが、利便性の面からこういう仕組みを使っているドライバーもいて特別なものではない。

 なにより、この激しい前後左右Gと暑さのなかで、何の問題もなく最新のF1マシンをコンペティティブな速さでドライブできたことが大きかった。

「僕は10ヵ月前とも、4ヵ月前とも同じ人間だ。(右腕の)身体の制約は以前と同じままだ。だけどクルマの外で見るよりも、クルマのなかでのほうが格段にいいよ。痛みを感じたりすることもなかった。もちろん疲れているけど、一番の問題は暑さで、(体力面の)フィジカル的にはたくさんのトレーニングを積んで準備をしてきた。F1に復帰できると思ってそうしてきたわけじゃなくて、テストドライブのチャンスがあれば、そのときにはきちんと準備が整った状態にしておきたいと思ったからそうしてきたんだ」

 クビサは自分の走りに満足しているが、「100%満足だとは言わない」とも語った。それは、まだまだ速くなれるという意味だ。

 昼休みに初めてマシンから降りて、自分の走りを見つめ直し、午後にはさらに走りを改善することができた。それがターニングポイントだったと言う。

「昼休みに初めてクルマから降りてしばらく落ち着いて、14時にもう一度クルマに戻るときには違うドライバーになったみたいな感覚だった。クルマがより一層、自分にフィットしたように感じられたし、それはいいサインだった。

 多くの人は、ドライバーというのは走ることによって速くなると思っているかもしれないけど、実際には考えること、どこをどうよくできるかを考えることによっても速くなるものなんだ。明日走れるなら自分の走りをさらによくするためのアイデアもあるし、クルマを自分にフィットさせ、より楽にナチュラルにドライブできるようにできる。これから今日起きたことをもう一度じっくりと考えて、次に走るチャンスがあったときには、もっとナチュラルにマシンに適応した状態で走ることができると思う」

 現時点でルノーは、クビサの現役復帰や次のテスト機会については何も明らかにしていない。F1で次に行なわれる合同テストは最終戦後のアブダビを待たなければならず、プライベートテストでは過去2年間のマシンを使用することは許されていない。

 クビサ自身はF1復帰を望んでいる。今回のテストを経験したことで、その思いはさらに強くなったようだ。

 右腕切断寸前という重傷からここに至るまでには、血のにじむようなリハビリと、地獄を見るような精神的な苦境を何度も何度も味わってきたはずだ。そこから這い上がってきた。だからこそ彼は、不可能はないと言い切ることができる。

「何も不可能なことなんてないよ。この6年、僕は自分の人生においては、それまでと違うステージにいた。事故のケガによる身体的な問題をリカバーするために、多くを捧げてきたんだ。身体的なことだけでなく、頭のなかにはいろんなことが浮かんだ。それは誰だってあることだと思う。

 だけど、僕のアプローチはとてもシンプルだった。何事も不可能なことはない。4ヵ月前と今を比べれば、隔世の感があるよ。そのくらい、ものすごいスピードで物事が動いていったんだ。この3ヵ月で僕自身はものすごく大きく進歩したし、(F1復帰に向けて)大きく前進したと思う。未来には何が起きてもおかしくないと思う」

 それでも、スポーツだけでなく政治や金など、さまざまな要素が絡み合って物事が決まるのがF1の世界だ。テストとレースでは、求められるものも負荷のレベルも違う。レースとなれば、単独で走るだけでなくバトルもある。

 だからF1復帰が簡単に実現できるとは思っていないともクビサは語る。厳しい現実と向き合い、それを乗り越えてきたからこその達観。クビサは誰よりも”現実”というものをよく知っている。

「僕の目標は、可能ならばF1で何らかの役割を担うことだ。でも、それが実現しなかったとしても、僕はガッカリしたりはしない。この3ヵ月でいろんなことが起きて大きく前進してきたけど、ここから先に進むためにはさらに多くのものが必要になるし、目標としている場所まではこれまでに進んできた道のり以上にものすごく遠いんだ。とにかく今はこの瞬間をエンジョイしているし、このチャンスをくれたルノーにはとても感謝しているよ」

 それでも、鳴り止まないクビサコールが今でも耳の奥でこだまする。きっとそれはルノー陣営にも届いているはずだ。