◆ベテラン監督3人の「甲子園物語」・前編


 8月4日に行なわれた抽選会。組み合わせが決まると49代表校の監督、主将は別室へ移動し、囲み取材が始まった。西谷浩一(大阪桐蔭)、馬淵史郎(明徳義塾)、鍛冶舎巧(秀岳館)、我喜屋優(興南)……。さすがは夏の甲子園らしく役者が揃うなかに、ひと際大きな存在感を放つ超ベテラン監督たちもいた。

 71歳・高嶋仁(智弁和歌山)、73歳・阪口慶三(大垣日大)、76歳・大井道夫(日本文理)。古希を過ぎてなおグラウンドに立ち続ける3監督だ。

「『70代の監督が3人いますが、どうですか?』と言われてもなあ……」

 そう苦笑いを浮かべた高嶋だったが、こうも言った。

「まあ、ようこれだけ長いことやってきたな、というのはあるけどな」

 長崎県の五島列島出身の高嶋は、長崎海星時代の2、3年時に夏の甲子園へ出場。特に2年時の入場行進で味わった感動が指導者を志す大きなきっかけとなった。そのためには大学で教職を取らなければならない。しかし実家の経済状況は厳しく、すぐには言い出せなかった。

 ところがある日、息子の夢を知った母が「お金のことは心配せんでええ」と言ってくれた。高嶋も1年間、五島へ戻り進学資金の足しにとアルバイトをしたが、何より心に残っているのは母への思いだ。

「高校へ行くときも五島から出るというので働いてくれて、大学のときもお袋の妹がやっていた洋装店を手伝って費用を工面してくれた。本当に感謝しかないし、そんな思いをしてまで野球をさせてもらったんやから、辞めるなんて絶対にできんという気持ちやったんです」

 日体大に進んだ高嶋は1年春からリーグ戦出場を果たすが、上級生からの”当たり”もきつかった。それでも、心が折れることも、逃げることもなかった。

「上級生が『正座せえ!』と2時間ぐらい座らされるなんていうのはしょちゅうやったけど、そんなのは全然平気。正座しながら、『お前ら、こんなんしかできへんのか。野球で勝負せえよ。お前らなんかには絶対負けへんからな』と思っていました」

 野球に懸ける思いが、ほかの部員とは違っていた。オフになると1年分の生活費を稼ぐため、深夜の測量など体を酷使するアルバイトに励み、4年間を乗り切った。

 大学卒業後、晴れて教員となり、1970年春に赴任したのが智弁学園(奈良)だった。2年前に甲子園出場を果たすと部員が急増し、若手のコーチを探していたのだ。

 当初は3年契約で、あとは「長崎に戻って……」と考えていた。しかしそうはならず、3年目に監督に就任。すると高代延博(現・阪神コーチ)がキャプテンを務めたチームで、春の近畿大会に出場。幸先はよかったが、夏は初戦(2回戦)で敗れ、その後も1回戦、2回戦敗退を振り返した。

 その間、高嶋は理事長の藤田照清に3度も辞表を提出。だが、その都度「こんなもん書く暇があったら練習せんか。勝ったらええんや!」と破り捨てられた。今となっては親心を感じさせるエピソードにも聞こえるが、高嶋は「あの人の頭には優勝しかなかったんよ」と言い、相当なプレッシャーがあったと振り返る。

 覚悟を持って臨んだ4年目、春の県大会で宿敵・天理に敗れたときの藤田の怒りは、これまで以上に激しかった。このとき、高嶋は監督交代、コーチ降格を告げられた。これに対して高嶋は「自分は野球部からも、学校からも離れます」と返した。しかし、周囲の取りなしもあって部長として残ることになり、夏のあと監督に復帰した。

 ところが直後の秋、今度は選手との間に”事件”が起きた。勝利したあと、試合内容に不満があった高嶋は、学校に戻ると「ええと言うまで走っとけ!」とベースランニングを命じた。これが10周、20周、30周……と続いても終わる気配がない。そこで当時のキャプテンが「やってられるか!」とキレ、グラウンドを出ていった。すると、ほかの選手もこれに続き、練習をボイコット。チーム崩壊の危機に陥った。

 この事態に、当初は完全に頭に血が上っていた高嶋だったが、やがて冷静さを取り戻すと、選手たちを集め、初めて胸の奥にある思いを語った。

 高校時代に甲子園でこれまで味わったことのない感動を覚え、指導者を目指したこと。選手たちにもこの感動を味わわせてやりたい。そのためには天理に勝たなければならない。だから、これだけ厳しい練習を課していること……。決して語りが上手な方ではない高嶋だが、思いを込めた言葉は選手たちに届いた。話し終えると、キャプテンが「監督についていきます」と頭を下げ、事態は収束。

 そこからチームは近畿大会でベスト8に入り、翌春のセンバツに出場。これが高嶋監督として初の甲子園だった。

「言葉にせんとわからんことがある。あとになって思えば、ボイコットしてくれたキャプテンに感謝です」

 監督として初めて臨んだ甲子園でベスト8。ここから智弁学園では3度の甲子園で7勝を挙げ、1980年には創立3年目の智弁和歌山へ異動。同好会レベルだった野球部を”打倒・箕島”に燃える集団にし、85年のセンバツで甲子園初出場を果たした。

 しかし、甲子園ではそこから5連敗。初勝利は智弁和歌山として6度目の出場となった1993年の夏まで待たなければならなかった。ここから順調に白星を積み重ね、3度の全国制覇を果たすなど全国屈指の強豪校へと押し上げた。

 智弁学園時代も含め、自身36回の甲子園出場で積み上げた勝利数は63。監督通算最多勝利数を更新し続けている。

 ただ、近年は初戦敗退が続いており、一昨年夏は敗退後に一部から”勇退”との報道も出た。「とにかく結果がすべてやから。結果を出すしかないんですよ」と、当時も今も同じ言葉を繰り返す。

 この夏、初戦の相手は興南(沖縄)。同じブロックには大阪桐蔭の名もある。

「ウチのキャプテンはくじ運がええはずやったのになぁ……」

 抽選後はしきりに苦笑いを見せた高嶋だったが、「上にいくときは、強い相手を倒して勢いに乗る、というのがあるからね」とも言った。強い智弁和歌山復活へ、自身37度目の甲子園に挑む。

(後編・73歳と76歳の監督につづく)