◆ベテラン監督3人の「甲子園物語」・後編


 73歳になる大垣日大(岐阜)の監督、阪口慶三の耳に今も残っているのが、東邦(愛知)の監督時代に浴びせられた当時の校長の声だ。

「中京に負けるために君を呼んだんじゃない。なんでもっと勉強しないんだ!」

 阪口は廊下にまで響きわたる激しい叱責を、東大野球部出身の校長から受けた。当時、野球部だけでなく学校としてもライバル関係にあった中京(現・中京大中京)に敗れたあとの言葉は、特に尖っていた。

 阪口が中学3年時、愛知県内の有力校からいくつか誘いを受けるなかで東邦進学を決めたのは、「純白のユニフォームにひと目惚れしたから」だった。投手兼一塁手として甲子園にも出場したが、中京には勝てなかった。

 卒業後、愛知大に進み野球部に在籍するも、将来は銀行マンになろうと考えていた。大学で教職課程を取ったのも、実はそのためだった。

「銀行マンといえば、東大、京大卒のエリートが多い。そのなかで学生時代は野球をやっていてキャプテン。4年で卒業して、教職も取っているとなれば、『よう努力しとるな』『面白そうなヤツだな』と思われるんじゃないかと。それで教職を取ったんです」

 しかし、そこへ東邦からの誘いがあり、1967年に教員として母校へ戻った。野球部を手伝ってくれとは言われたが、当然、コーチだと思っていた。ところが、4月1日に学校へ向かうと、校長からこう言われた。

「今日から監督をやってくれ。今のままでは中京を破ることはできん。中京に勝つ野球を考えてみよ」

 黙って頷くしかなかった。直後の春の県大会で1回戦負け。様々な代のOBから連夜の呼び出しを受け、「あそこはバントだろ」「なんでスクイズしないんだ」といろんな意見を頂戴した。

「天下の名門には姑がいっぱいおったからね(笑)」

 東邦は戦前の1934年、39年、41年とセンバツ優勝を果たすなど、全国屈指の強豪校だったが、夏は勝てなかった。なにより、中京に勝てなかった。

「こっちはブリキ集団。向こう(中京)はステンレス軍団」

 自らそう例えたエリート集団を倒すためには、絶対的な練習量を積むしかない……それしか思い浮かばなかった。

「オレたちはこれだけやったんだと、自信を持てる練習量。それは選手だけでなく、右も左もわからないなかで監督になった私も同じ。信じられるものがほしかった」

 休日はなく、4キロにおよぶうさぎ跳びや、時間を忘れてのランニングなど、想像を絶する猛練習の日々。鉄拳や怒号が飛び交うグラウンドで”鬼の阪口”となり、強い東邦が築かれていった。

 打倒・中京の思いが結実したのが就任3年目(1969年)の夏。県大会準決勝で平均身長167.8センチのブリキ集団が、まさかの一発で逆転サヨナラ勝ち。決勝も勝利し、阪口監督となって初めての甲子園を決めると、その年から愛知の夏を3年連続で制した。

 1977年の夏は、1年生エース”バンビ”こと坂本圭一の好投で全国準優勝。80年代になってからは愛工大名電、享栄も加わり”愛知4強”のなかでしのぎを削った。その後、1988年のセンバツでも準優勝、1989年のセンバツで優勝を飾るなど、実績を積んでいった。

 そして2005年に38年過ごした東邦を離れ、岐阜の大垣日大に戦いの場を移す。すぐさま2007年春に希望枠で同校初の甲子園出場を果たすと、この夏も含め通算7度出場。瞬く間に常連校へと導いた。

 かつてのように怒ることは減り、逆に褒める回数は格段に増えたが、”鬼の阪口”を支えてきた熱き思いは、今も失われていない。昨年夏、県大会決勝で中京学院大中京に敗れた悔しさが、今回の甲子園につながったと阪口は言う。

「負けたあと、嫁から『だらしないゲームやったね。練習が甘いせいじゃないの?』って言われてね。自分でも思うところがあったし、負けの悔しさを忘れず、そこからもう一度厳しくやりました」

 体には闘病生活も経て満身創痍ながら、昨年夏の敗戦以降、合宿所で泊まることが増えた。夜間練習に付き合い、そのまま宿泊。朝に選手たちが学校に行くバスに乗り、自宅近くで降りて家に戻る。そしてまた午後から練習。そんな日の繰り返しだったという。

「子どもといる時間が長くなったよね。大垣日大に来て13年になるけど、こんなに合宿所に泊まった年はないから」

 今年のチームは、2年生右腕ふたりを含めた3人の投手が力を持っており、野手陣も堅守とそつのない攻撃で上位進出を目指す。監督生活50年を超えて迎える31度目の甲子園。最後にこんな思いを口にした。

「勝ち負けはあるけど、今年のチームは選手の姿勢がいいんですよ。本当に一生懸命やるから、負けたとしても拍手を送れるチーム。こんな真面目ないい子たちに囲まれてやれる幸せ。甲子園では勝負にこだわるけど、こだわりたくない……そんな心境です」

 その阪口より3歳上の76歳になる日本文理(新潟)監督の大井道夫は、この夏に出場した49校の監督のなかで最年長となる。

「いやぁ、こう見えて私もいろいろしているのよ。胆管を切って、石も取ってね。でも、グラウンドに立って、たまに大声を出しながら子どもたちと好きな野球をやって……それがいいんじゃないのかな」

 自身の病歴を挙げながら、まるで他人事のような快活さでこう語る姿は、極めて元気である。

「高嶋(仁・智弁和歌山監督)さんも含めた3人のなかでは、オレが最年長。ここに如水館(広島)の迫田(穆成/よしあき)さんが来てくれたら、オレの上なんだけどね。6年前のセンバツで会ったときに『よかった。迫田さんがいてくれるから最年長じゃなくて』と言うと、『大井さん、70歳あたりになると2つ、3つ違ってもみんな同じだから』って言われて、笑ったもんですよ。だから今回もそういうこと。阪口さん、高嶋さんにも『変わんないよ』って言っといて」

 こう言うと、また実に愉快に笑った。

 太平洋戦争の開戦が迫っていた1941年9月、割烹料理店を営んでいる両親の長男として、栃木県宇都宮市に生まれた。戦火をくぐり抜けながら野球少年として成長し、高校は宇都宮工業へ進んだ。

 ここで1958年のセンバツと59年夏の2回、甲子園の土を踏んでいる。キレのいいストレートと落差を変えて投げ分けるカーブが得意なサウスポーで、打撃にも見るべきものがあった。

 特に力をつけた3年時の夏の投球は抜群だった。甲子園初戦から順に、広陵(広島)を2対1、高知商を1対0、東北(宮城)を2対1(延長10回)と抑え込み、栃木県勢初の決勝進出を決めた。西条(愛媛)との決勝戦は2対2のまま延長14回まで進み、15回に6失点と力尽きたが、堂々の準優勝。

 早稲田大に進学後は肩を痛めて打者に専念し、4年時は4番・ファーストとして活躍。さらに社会人野球の丸井では故・大杉勝男(元ヤクルトほか)と中軸を組んだが、入社から1年も経たずにチームは解散。ここで野球と別れ、栃木へ戻り、実家の割烹料理店を継いだ。

 それから20数年が過ぎた1986年。日本文理の前身である新潟文理から知人を通じ、監督依頼の話がきた。開校3年目、「野球部に野球の基礎を教えてほしい」と頼まれ、「2、3年のつもりで……」と店は夫人に任せ、単身で新潟に出向いた。

 いざ行ってみると、事前に聞いていた話とは何もかもが違っており、途方に暮れそうになったが、13人の子どもたちとグラウンドの石拾いからスタート。45歳での現場復帰だった。

 本格的に野球から長く離れていた分、野球への思い、そこに子どもたちへの思いも加わり、教えたいことが次々と噴き出てきた。そして大井がなにより力を入れたのがバッティングだった。

 当時、センバツ未勝利など野球後進県と言われていた新潟の野球を変えたいと。そのためにはバッティングだと確信していた。甲子園では池田(徳島)、PL学園(大阪)の猛打が続いていた時代だ。

「5点以上取って勝つ」

 これが大井の目指す野球のスローガンになった。

 そして監督就任から12年、1997年の夏に悲願の甲子園出場。しかし、喜びも一瞬。初戦でその大会を制する高嶋率いる智弁和歌山と対戦し、6対19と完敗を喫した。

「バッティングに自信を持ってきたら、全国にはとんでもないチームがあると知らされてね。その悔しさを持ち帰って、それがあの年のバッティングにつながっていったんですよ」

 あの年とは──夏の甲子園で準優勝を果たした2009年夏のことだ。県大会から打ちまくり、初戦から準決勝まですべてコールド勝ち。決勝も12対4の大差で制すると、甲子園でも史上初の2試合連続毎回安打を記録。5試合で38得点を挙げ、中京大中京との決勝戦では6点ビハインドの9回二死から5点を奪うドラマを見せた。球史にその名を刻み、新潟の高校野球の力を全国に知らしめた。

 この夏、3年ぶりとなる甲子園は、今大会限りで勇退する大井にとって最後の指揮となる。

「野球人にとっていちばんの幸せはユニフォームをずっと着ていられること。大学の同窓会に出ると、いつもみんなに『大井は幸せだ』と言われてきたからね。あらためてその言葉がしみます。ほんと、この歳までユニフォームを着られたんだから、こんな幸せなことはないなって……」

 今年3月に「この夏限り」という報道が出てから、「監督と1試合でも多く」と選手たちが奮起し、春に続き、夏の県大会も制した。しかも県大会6試合すべて5点以上を挙げるなど、”大井野球”を実践して勝ち取った甲子園だった。

「子どもたちに感謝。それしかないですよ。県大会のときから気持ちが伝わってくるんだよね。『なんとか監督を甲子園に』ってね。私の口からこの件を直接選手たちに言うことはなかったけど、『甲子園でも普段通り頑張ってくれ』と。高校野球は私の人生ですよね。その最後に甲子園。子どもたちと楽しませてもらいます」

 高校球児だった頃から数えても、ゆうに半世紀を超えている。今もなおグラウンドに夢を求め、子どもたちと一緒に白球を追い続けている超ベテラン監督たちの熱い夏。偉大なる野球人の采配をじっくり味わいたい。

(おわり)