サーフィン史で起きた三つの出来事から、東京オリンピックを考える。

オリンピックで金メダルを誰が取るか?どんなドラマが起こるのだろうか?もちろんまだ誰にも分らないが、サーフィンがオリンピックの公式種目として競われ、サーファーが表彰台に立ち、メダルを胸にして勝利を高々と宣言することは確実。そして世界中に放映され、注目度はハワイのパイプラインマスターズでさえも凌ぐことになるだろう。

さらにドラマチックなハプニングが起きれば、世界がそれを目撃し、サーフィン界に大きな影響を及ぼすことになるだろう。近代サーフィンの歴史には、そのようなターニングポイントとも呼べる出来事がこれまで起こってきた。そのいくつかを取り上げて、今年行われるオリンピックを再考してみようと思う。

“History of Surfing by Nat Young”
サーフィンのエキジビションを終え、自作のサーフボードを担いで歩くデュークと、彼を取り囲むオーストラリアの人々。手前の少年がクロード・ウエストで後に全豪チャンピオンとなる。ちなみにデュークはこのとき水泳の試合で自らの世界記録を更新している

デューク・カハナモクの公式サーフィンエキジビション

サーフィン大国オーストラリアの歴史は、1914年12月24日にその小さな一歩を踏み出している。それはオリンピックのゴールドメダリスト(100m水泳)デューク・カハナモクにより、シドニーのフレッシュウォーター海岸でサーフィンのエキジビションが行われた日だからだ。

デュークは水泳の招待選手として来豪していたが、サーフィンを世界中に普及させたいという大きな夢を抱いていた。そのために彼はオーストラリアでサーフィンのデモンストレーションを行った。彼は自らシュガーパインという木材を調達してサーフボードをシェープし、波をサーフした。

彼の、サーフィンのデモンストレーションは翌年1月や2月にも行われた。地元紙シドニーサンが「カハナモクの即興的操縦はすばらしい」と報道すると、そのデモンストレーションを見ようと人々が海辺に集まり、ときには3000人を超えることもあったという。

その観衆のなかに10才のクロード・ウエストという少年がいて、デュークのサーフィンに魅了されたクロードは幸運にもデュークからサーフィンを指導されることになる。そしてデュークが帰国する際、彼はサーフボードをクロード少年に託す。その後ウエストは1919年から1924年まで全オーストラリア選手権のチャンピオンとなった。

https://www.surfresearch.com.au/1967_Greenough.html
ナット・ヤングの独壇場となった1966年の世界選手権で、サーフボードは一気にショート化の道を進み、ノーズライディングは終焉を迎えた。右は2位のジョック・サザーランド、左は3位のコーキー・キャロル

サンディエゴのサーフィン世界選手権

1966年にカリフォルニアのサンディエゴで開催されたサーフィン世界選手権は、サーフィンの歴史上最も影響力のあった選手権とも言われている。その理由はオーストラリアのナット・ヤングの優勝によってサーフィンのショートボード革命が起こったからだ。当時カリフォルニアではノーズライディングが主体のサーフィンが定着していて、そのカリスマがハワイアンのデビッド・ヌヒワで、大方の予想はヌヒワの優勝だった。

10フィートクラスのサーフボードが主流だったその時代に、ナット・ヤングが使っていたボードは9フィート4インチ、しかも軽量で薄かった。フィンも現在のショートボードに使用されているような先細りでフレキシブルなシングルフィンが装着され、ナット・ヤングの豪快でパワフルなカットバックを可能にしていた。
重量があり直線的にしか進まないサーフボードの上でステップするだけのヌヒワのサーフィンに対して、ナットは「ただボードに立って前に歩くだけが、良いサーフィンとは思えないね」とライバルを酷評した。

しかしそれだけのことを言わせるほど彼のサーフィンは他の選手を圧倒していた。(現存する映像を見れば、彼のターンの凄さが理解できる)結果としてナット・ヤングは世界を制することになるが、その直後にオーストラリアのジャーナリスト、ジョン・ウィッチグが米国サーファー誌へ「今は我々がトップだ」というタイトルの記事を寄稿した。そこでウイッチグはカリフォルニアのサーフィンを「平凡でつまらない」と評し、逆にオーストラリアを「エキサイティングでダイナミック」と称賛した。

この世界戦によってメディアが一般サーファーへ与えた影響力は凄まじく、まるで一夜にして、と表現できるほどサーフボードはショート化の道を進み、1968年の世界戦(当時は2年毎)では6フィート代が登場するほど短くなり、ノーズライディングはすでに終焉を迎えていた。現代のサーフボードはこの世界選手権をターニングポイントとして進化してきた。

サンディエゴの観衆はナット・ヤングのえぐるようなカットバックに完全に叩きのめされた https://www.youtube.com/watch?v=uClgP_a1_Ew

モダンサーフィンのパフォーマンスからサーフボードデザインに至るまで、サイモン・アンダーソンが開発したスラスターを抜きにしては考えられない。
“History of Surfing” by Nat Young photo: Peter Crawford

1981年パイプラインマスターズ

世界で最も有名なサーフコンテストの一つ「パイプラインマスターズ」。この試合で勝つことはプロサーファー にとって今もたいへんな名誉である。1981年のパイプマスターズではオーストラリアのサイモン・アンダーソンが優勝した。

彼にとってパイプでの初優勝となったこのコンテストだが、じつは世界のサーフィン史にとって彼の勝利は大事件となった。なぜならば彼のサーフボードにスラスターと彼が呼ぶ3枚のフィンが装着されていたからだ。この勝利以前、サーフィンのメッカ、ノースショアではシングルフィンでビッグウェーブをサーフするのが常識となっていた。

ツインフィンで4度の世界チャンピオンになったマーク・リチャーズもノースショアではそのパワーに対応するためにシングルフィンで試合を戦った。このシーズン、サイモンはすでにベルズのビッグウェーブで開催された試合とサーフアバウトをスラスターで制していた。だからハワイでそのスラスターが通用するかどうかと話題になっていて、論争は二つに別れていた。

それほどノースショアではシングルフィンでサーフするという長い伝統が続いていた。しかしその3枚のフィンは、パイプでの勝利という決定的な結果で伝統を打ち破った。そのスラスターの有効性は現在でも続いている。CTのトッププロのほぼ全員がスラスターを使用していることがその有効性を証明している。

まとめ

サーフィンの歴史のターニングポイントとなった三つの出来事を紹介したが、どれも共通していることは当時のメディアが人々の関心を強く引きつけたことだ。サーフィンという新しいスポーツをオーストラリアへ啓蒙したゴールドメダリストのデューク・カハナモク。世界選手権でノーズライディングを競っていたカリフォルニアのサーフィンに、カービングという新風を吹き込んだオーストラリアの新人ナット・ヤング。シングルフィンの伝統を打ち破りパイプラインでスラスターの有効性を自ら証明したサイモン・アンダーソン。そのどれもがメディアによって報道され人々の関心を集め、歴史として刻まれた。

東京オリンピックの世界のメディアが注目する中で、もしドラマチックな出来事が起きれば新たなサーフィンの歴史の1ページとして刻まれ、それを目撃した子供たちの中から、未来のゴールドメダリストや世界チャンピオンがいつか誕生するに違いない。

(李リョウ)