あなたは「詩人」といわれると、どんな人を思い浮かべますか? ヨーロッパには「吟遊詩人」の存在もあったことからか、美貌を有し、恋と夢と自然を高らかにうたい、自らもそれに殉じる「青春」そのものを体現したような「ザ・詩人」がキラ星のように浮かびます。リルケ、ハイネ、ノヴァーリス、ヴェルレーヌ、バイロン、ランボー、ゲーテ…。
日本では、自由な形式で思いを紡ぐ自由詩を歌う「詩人」が現れたのは明治以降。島崎藤村、北原白秋から、やがて今でもファンの多い萩原朔太郎、中原中也、宮沢賢治などの詩人が出現しました。しかし、西洋風イメージの「詩人」と言い得る人物は日本にはさがしてもなかなかいませんよね。そんな中、昭和初期、奇跡のように現れた青春詩人。それが立原道造です。素材としてありふれた恋や夢や憧れを、平易な言葉で類まれな美しい詩に結晶させました。その立原が生誕したのが、1914(大正3年)のこの日でした。

リア充詩人!? 立原道造の華麗なるプロフィール

立原道造は、大正3(1914)年7月30日、東京市日本橋(現・東京都中央区東日本橋)に生を受けました。
19歳のときには堀辰雄との交流から抒情詩同人誌「四季」の初期編集同人となり(他のメンバーは堀辰雄、丸山薫、津村信夫、三好達治)詩壇への作品発表をはじめました。堀らのほか、高見順、室生犀星らとも親交し、1937年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、処女詩集「萱草に寄す(わすれぐさによす)」第二詩集「暁と夕の詩(うた)」を相次いで発表。また、勤務先の石本建築事務所の事務員を務めていた水戸部アサイ(美女だったとか)とも交際をはじめています。
日本の多くの詩人が、家庭が貧乏だったり出身地や学歴、容姿などに鬱屈したコンプレックスのある「非リア充」が多かった中、格段に裕福とはいえないが金には困らず、東京都心に生まれ学歴は帝大(現在の東大)卒、職業はアーキテクチャー、友人たちにも愛され、シュッとした美貌と長身で女性にもモテていた(水戸部アサイさんのほかに、鮎子さんとか、今井春江さんなどという異性とのつきあいもあったようです)、せいぜい運動が苦手という程度の、いわば「リア充」の典型だったのが立原でした。中村眞一郎は「ぼくの記憶の中には、人間であるよりは、遥かに妖精に近い雰囲気を、あたりに撒き散らしながら、空中を飛ぶやうに身軽な歩き方で歩き廻ってゐた、建築家兼詩人の半ば少年のやうな姿が、ありありと生きてゐる。」と語りました。
ではそんな天賦のリア充詩人の書いた詩をまずひとつ紹介しましょう。
夢みたものは ひとつの幸福
ねがったものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある
日傘をさして 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊ををどつてゐる
告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる
夢みたものは ひとつの幸福
ねがったものは ひとつの愛
それらはすべてここに ある と
(「夢みたものは…」)

美しい景色の中、恋人と憩う詩人。幸福も愛も「すべてはここにある」と、まさにリア充そのもの。
けれども、ここまでほがらかで充足した内容の詩を書きながら、その詩は不思議なほど幻じみた気配がないでしょうか。空想や願望を歌っているからではなく、明らかに詩の内容と重なる体験がありながら、彼の言葉はそのただ一瞬に浮かんで消える雲のようであり、またそれを誰よりも立原自身が感じ取っていることが伝わってきます。
近年のJポップのラブソングと比較しても違いははっきりしています。Jポップで多用される「永遠」「絶対」「もう二度と○○しない」「きっと」「誰よりも」「かけがえのない」などのパワーワードは、結ばれたもの(恋人や仲間や幸せ)を失うことの不安感から、自身と相手に暗示をかけ、未来を呪縛する言葉の数々に満ちています。
けれども、この詩にはそうした力みや人間的な不安感はまったく見られません。まるでこの先などないかのような刹那的な世界。幸福な詩にもかかわらず、あふれてくる諦観や喪失感。まるであの世に旅立つ末期の人が見ている奇妙に明るい幻のような。
そう、立原の人生は、処女詩集出版のわずか二年後に、あっけなく閉じてしまったのです。上記の詩も、彼の死後友人たちにより発表された遺稿です。

希望と夢と小鳥と花に彩られた詩は永遠の悲しみとなった

詩作や翻訳、建築でも才能を発揮し、順風満帆だった立原は、処女詩集出版からわずか二年後、1939年3月、結核によりこの世を去ってしまいます。享年24歳。
その大半がソネット形式(十四行詩 Sonnet 四行・四行・三行・三行もしくは四・四・四・二で構成されたヨーロッパの定型詩)を形式上模倣して書かれた詩は一読、夢のような恋愛や美しい自然の景観や花鳥風月(花や鳥や風の登場は実際に多い)を歌っているように見えて、ドイツロマン派の強い影響下の元、この世ならないものへの憧憬、魂の合一への希求に貫かれ、透明な寂寥感と喪失感に満たされています。それは、自身の夭折を予感しているとしか思えないものでした。
私はささやく おまへにまた一度
――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ
うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!
やまない音楽のなかなのに
小鳥も果実(このみ)も高い空で眠りに就き
影は長く 消えてしまふ――そして別れる
(「薄明」より)

――しはわせは どこにある?
山のあちらの あの青い空に そして
その下の ちひさな 見知らない村に
(「草に寝て…」より)
身のまはりで すべてが死に
僕らのうたはかなしみになる
そして 空は かぎりなくとほい
あのあこがれは 夢だつた と
僕らの翼と咽喉は 誣(し)ひるだらう
いつまでも そのあと いつまでも
(「いつまでも いつまでも」より)
「いつまでも」というJポップにもありがちな不変を希求する言葉も、幸せや恋愛関係の永続ではなく、「あこがれとかなしみ」に宛てられていることにご注目ください。叶えられないあこがれやかなしみを、人々になりかわり詠うからこそ、詩人なのです。
その、すぐにも真似できそうな平易な文体から、道造の死後似たような作品が数限りなく創作されましたが、その凛とした透明感と緊張感とたたえられる悲哀は、実は誰にも真似できない、日本文壇史上一度きりの奇跡とすらいえるかもしれません。

元祖スイーツ男子、愛国にかぶれる!?

とはいえ、立原も生身の人間。おかしなエピソードがたくさん残っているようです。いたずら好きで、室生犀星宅に寝泊りしていた一時期には、犀星の娘たちを物陰に隠れて通りがかりに「わっ」と大声を上げて脅かすのが楽しみだったようで、このため室生家では「わ」「わ先生」と呼ばれていたとか。
「四季」の追悼特集での犀星の追悼文の結び「さよなら、わよ、わよ。」は、現代までも語り継がれる名文として知られています。
親友であった杉浦明平は、立原の甘味好きにつきあわされて閉口だったと語り、ぜんざい屋をはしごするほどの元祖スイーツ男子であったことがわかります。そして死の数ヶ月前の晩秋、おりしも勃発していた日中戦争で、国威が高揚していた時代。立原は右翼思想寄りの「日本浪漫派」の同人「コギト」と接近していたこともあり、武漢三鎮攻略の興奮から杉浦宅を訪れ、「文学者は民族主義の先頭にたたなければならない」と演説をぶち、杉浦とけんかになります。杉浦は怒りに任せて「何だ君は、男の癖にぜんざいを三杯もおかわりしやがって」。立原は一瞬あっけにとられ、黙り込むと大きく目を開いて涙をこぼしてしまいます。杉浦は言った後に「しまった」と思ったそうですが後の祭り。自分も泣きそうになってしまったのでお茶に誘ってごまかしたとか。その半年後にはなくなってしまうわけですから、今でもそのときのことを後悔している、と述べています。この喧嘩の別れ際、立原は流れてきた市電にひょいと飛び乗り、「明平ってほんとはやさしいんだよね」と一言言って、曲がり角まで手を振っていたそう。筆者の好きなエピソードです。
立原が「かぶれ」た愛国の思想、死して国に命を捧げよう、という意気込みは、むしろ迫り来る死期を予感する詩人の直観だったのでしょう。
おわりに、処女詩集「萱草に寄す」所収の代表作「のちのおもひに」を。

夢はいつもかへつて行った 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見てきたものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれも聞いてゐないと知りながら 語りつづけた・・
夢は そのさきへは もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
(のちのおもひに)
参考文献
立原道造詩集(中村真一郎編) 角川文庫
立原道造詩集(杉浦明平編) 岩波文庫
四季 第四十七号 立原道造追悼号(昭和14年7月号)