初代ドリームチーマーをはじめ、多くの名選手が誕生した1980年代のNBAドラフト。そんななかにあって、異質なのが1986年だ。MVP受賞者は皆無。しかも、ドラフトからわずか2日後に急死したレン・バイアスをはじめ、80年代のスポーツ界に蔓延していた“薬物”によって、身を持ち崩した選手が特に目立った年だった。

■逸材を輩出した1980年代で86年は異質の年だった

 1980年代は多くの名選手を輩出している。もはや伝説と化している初代ドリームチームも、中心メンバーは1980年代中頃のドラフト指名選手だ。1984年組からマイケル・ジョーダン、チャールズ・バークレー、ジョン・ストックトン、1985年組がパトリック・ユーイング、カール・マローン、クリス・マリン、1987年組はデイビッド・ロビンソンとスコッティ・ピッペン。その3年だけで計8人、チームの3分の2を占めている。

 1992年のバルセロナ・オリンピック開催時、彼らの平均年齢は28.7歳。タイミング的に、バスケットボール選手としてピークを迎えていた世代ということもあるが、それにしてもこの顔ぶれの豪華さは凄まじい。NBAの長い歴史を見渡しても、これだけの逸材がわずか数年間に集中して誕生した期間は、ほかに例がないだろう。他にも、1984年のアキーム・オラジュワンや1987年のレジー・ミラーなど、それぞれのフランチャイズを象徴する名選手も輩出している。
  そんな奇跡のような世代に、ぽっかりと空いた1年がある。1986年だ。初代ドリームチームには1人も選ばれず、MVP受賞者やオールNBAチームの常連選手も見当たらない。単に谷間の年だったと言えばそれまでだが、よくよく調べてみると、そういった簡単な言葉では片付けることのできない、数奇にして壮絶な悲劇が背後に潜んでいることに気付く。“波乱万丈”、その言葉が1986年組を言い表すのに一番ふさわしいかもしれない。

 この年の1位指名候補は2人。まずは身長203cmのスモールフォワード、レン・バイアス。ワシントンDC近郊に生まれ、地元メリーランド大に進んだバイアスは、ドラフト候補の中では飛び抜けて優秀なアスリートだった、桁外れの跳躍力と爆発力を持ち、屈強な身体に柔剛を兼ね備え、4年時には平均23.2点、7.0リバウンド、フリースロー成功率86.4%を記録。その才能はジョーダンに匹敵するとも言われていた。バイアスはジョーダンの1学年下で、大学時代に何度か対戦している。

 当時『ボストングローブ』紙は、「ジョーダンと同じタイプだが、ジョーダンより大きく、ジャンプショットも上手い」と評し、また後に放送された『ESPN』のドキュメンタリー番組で、現在ウィザーズの実況を担当しているスティーブ・バックハンツは、「あの時点ではバイアスのゲームの方がジョーダンより優れていた」と述べている。
  もう1人は、ノースカロライナ大4年のセンター、ブラッド・ドアティ。ジョーダンの後輩で、2シーズン一緒にプレーした経験を持つ。213cmの身長を生かしたフックショット以外、これといった武器はなく、地味で少々ソフトなイメージがあったものの、堅実なプレーを持ち味としていた。4年時には平均20.2点、9.0リバウンドを記録している。

■ドラフト2位指名選手がわずか2日後に薬物で急死

 ロッタリー制度が導入されて2年目となるこの年、抽選の結果上位の指名順は1位シクサーズ(クリッパーズより譲渡)、2位セルティックス(ソニックス/現サンダーより譲渡)、3位ウォリアーズに決定する。後に1位指名権は再びトレードされ、6月17日にドラフトが開催された時には、キャブズの手に渡っていた。

 ビッグマンを必要としていたキャブズがドアティを1位で指名すると、2位のセルティックスはすかさずバイアスを指名。ドラフトの模様をTV放送した『TBS』がボストンと回線を結び、当時球団社長だったレッド・アワーバックとのインタビューを中継している。アワーバックは興奮を隠し切れない様子で、チームにとってバイアスの獲得がいかに重要な出来事であるかを雄弁に語った。
  その9日前に行なわれたNBAファイナルにおいて、セルティックスは1980年代で3度目となる優勝を勝ち取っている。だが、エースのラリー・バードをはじめとした主力の高齢化と、それに伴う故障の多さは避けられず、チームの若返りが急務だった。そこで次期エースにバイアスを据えるべく、アワーバックは3年前からこの年のドラフトに照準を合わせ、自身のキャンプにバイアスを招待するなどして関係性を深めていたのだった。

 一方のバイアスも、ドラフト前からセルティックスが意中のチームであることを公にし、直前のファイナルでもセルティックスベンチのすぐ後ろで試合を観戦。相思相愛の関係であり、セルティックスの2位指名は双方にとって夢が叶った瞬間でもあった。

 ドラフトの翌日、バイアスは父親と代理人の3人でボストンに飛び、リーボックの本社を訪ねた。5年160万ドルのスポンサー契約を結ぶことで合意すると、とんぼ返りでワシントンDCに引き返し、父親を自宅へ送り届けた後に学生寮のワシントンホールに戻る。時間は午後11時30分。寮ではルームメイトや友人たちが、バイアスのセルティックス入りを祝おうと待ち構えていた。

 日付が変わった午前2時、バイアスは車で外出し、キャンパスの外で催されていたパーティーに顔を出す。その後リカーショップに立ち寄りコニャックなどを購入、寮に戻ったのは3時頃だった。そして6時過ぎ、バイアスは突如発作を起こして意識を失う。午前6時32分、友人が911(緊急通報用電話番号)に連絡。その時の生々しい通話記録が残されている。
 911:「PGカウンティー(プリンスジョージズ郡)エマージェンシー」
友人:「救急車をよこしてほしい、何、何号室? 何号室? 1103ワシントンホール。緊急事態だ。レン・バイアスだよ、彼はボストンに行ってきたばかりで、彼に助けが必要なんだ!」
911:「何のことを言ってるんですか?」
友人:「えっ?」
911:「何を言ってるんですか?」
友人:「俺が言ってるのは、えー、誰かに、レン・バイアスに助けが必要なんだ!」
911:「彼の名前が何であるかは関係ありません。何があったんですか?」
友人:「彼が息をしてない。レン・バイアスだよ。彼を生き返らせなきゃならない。彼が死ぬなんてあり得ないよ。マジでだ。早く来てくれ!」

 6時36分、寮に救急隊が到着し、2km先の病院に搬送。懸命の蘇生処置も虚しく、8時50分、死亡が確認される。死因はコカインの過剰摂取。バイアスの尿から、極めて純度の高いコカインが検出された。ドラフトで名前を読み上げられてから、わずか2日後の出来事だった。

 アメリカにおけるドラッグカルチャーの根は深い。1980年代にはクラック・コカインが蔓延し、俗に言う“クラックブーム”が巻き起こる。その流行は、当時のNBA、プロスポーツ界、社交界、そして一般のエリート層など、アメリカ社会全体に暗い影を投げかけていた。

 コカインによるバイアスの突然死は、アメリカ全土に大きな衝撃を与えた。時の大統領、ロナルド・レーガンがバイアスの家族に直筆の手紙を送ったほどだった。1988年、米国議会はより厳格な薬物防止法案を可決する。通称“レン・バイアス法”である。リーグが薬物検査を強化させたことは言うまでもない。
 ■波乱万丈のキャリアを送った選手が多く存在

 ウォリアーズが3位で指名したのは、ノースカロライナ州大のクリス・ウォッシュバーン。NBA情報サイト『HoopsHype』が2011年に掲載した記事の中で、ウォッシュバーンはドラフト当時のことを赤裸々に打ち明けている。

 その記事によると、彼はドラフト後もニューヨークに留まり、18日の晩はブロンクスのアパートメントで夜通しコカインを吸引していたという。そこに集っていたのは10人ほどで、名前は明かせないが、ほかに3人のNBA選手もいたそうだ。ウォッシュバーンは言う。「今振り返ると、それ(過剰摂取による急死)は俺にも起こり得た」

 プロ1年目に、ウォッシュバーンは薬物で問題を抱えていることをチームに告白し、リハビリ施設で治療を受けた。しかし翌シーズン途中にホークスへトレードされ、その後薬物検査に3度引っかかったことで永久追放処分を受ける。ドラフト3位の将来性豊かな若者が、薬物地獄から抜け出せず、わずか2年でリーグから姿を消した。
  6位でサンズに入団したウィリアム・ベッドフォードも、薬物の誘惑を断ち切ることができなかった。NBAに在籍した7年のうち、1年間を薬物のリハビリに費やし、所属チームから解雇された後も薬物所持で2度逮捕。2001年には11kgの大麻を運んだかどで逮捕され、10年間の懲役刑を食らった。

 さらには、7位でマブズから指名を受けたロイ・タープリーも、薬物とアルコールで人生を棒に振っている。オールルーキー1stチームに選ばれ、2年目には平均13.5点、11.8リバウンドを記録しシックスマン賞を獲得。順風満帆なキャリアを送るかに思われたが、飲酒運転による度重なる逮捕とコカインの使用により、3年間の出場停止処分に。1994年、なんとか復帰を果たすも再び問題を起こし、翌年永久追放された。2015年1月、タープリーは50歳の若さで死亡している。死因は明らかにされていない。

 1986年組には、チャック・パーソンやロン・ハーパー、デル・カリー(ステフィン・カリーの父親)、マーク・プライス、ジェフ・ホーナセックなど、優れたシューターやバイプレーヤーが顔を揃えているものの、やはり波乱万丈型選手の印象が強い。最後に、NABA史に確固たる爪痕を残すも、殊のほか数奇なキャリア、そして人生を送った選手を何人か紹介しよう。
 ●1巡目24位 アルビダス・サボニス/リトアニア・ソビエト社会主義共和国出身で、ヨーロッパ史上最高のセンターと謳われた。米ソ冷戦に翻弄され、この年のNBA入りは叶わず。1995年に念願のNBAデビューを果たしたが、その時は故障持ちの30歳。1986年に21歳でNBA入りし、20代の全盛期をNBAでプレーしていたら、オラジュワンやロビンソン、ユーイングらと肩を並べていたか、もしくは凌駕し、歴代トップクラスのセンターになっていたと考える識者もいる。

●2巡目27位 デニス・ロッドマン/史上最長となる7年連続リバウンド王に輝き、歴代屈指のリバウンダーとして名を馳せたが、奇行や愚行を繰り返し、現役最後の2シーズンをわずか数週間で解雇された異端児。引退後もトラブルが絶えず、北朝鮮の金正恩総書記と親密にするなど、異様な行動でメディアを騒がせている。ピストンズ時代の1993年には、アリーナの駐車場に車を停め、銃で自殺しかけたことも。

●3巡目60位 ドラゼン・ペトロビッチ/1989年からNBAでプレーし、その激しいプレースタイルと勝負強さに、ジョーダンも一目置いたクロアチアの英雄。1993年6月、雨のアウトバーンでスリップして停まっていたトレーラーに、時速180kmで激突し即死。ペトロビッチは腕の良いドライバーだったが、ハンドルを握っていたのは同乗していたガールフレンドだった。わずか4シーズンという短い期間ながら、NBAを疾風のように駈け抜け、後のヨーロッパ出身選手に多大なる影響を与えた。享年28。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2016年4月号掲載原稿に加筆・修正。

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