“史上最悪のオリンピック”――。1972年のミュンヘン五輪は、「黒い9月事件」の発生によってそう呼ばれている。そしてアメリカにとってもまた、決勝でソビエト連邦に敗北し、五輪連勝記録が63で途絶える最低の大会となった。

 なぜ無敗を誇っていたアメリカが負けたのか。その背景には、数々の“疑惑の判定”があったのだ。

■“史上最悪のオリンピック”ミュンヘンで起きた負の歴史

 1972年のミュンヘン五輪は、“史上最悪のオリンピック”と言われている。大会11日目、パレスチナ・ゲリラが選手村を襲撃。西ドイツ警察・軍の不手際も手伝って、イスラエル選手団11人が殺害される惨劇「黒い9月事件」が発生したからだ。

 人命が失われた重大さとは比べものにならないけれども、この大会はアメリカバスケットボール史にとっても、最低の思い出が残っている。36年前、同じくドイツで行なわれたベルリン五輪で正式競技に採用されて以降、7度の大会を戦って1試合として敗北を喫したことのなかったアメリカが、決勝で敗れ銀メダルに終わったのだ。

 しかも相手は、最大のライバルであるソビエト連邦(ソ連)。そしてその負け方自体が、到底納得のいかないものでもあった。
  この大会のアメリカ代表は優勝候補の最右翼ではあったものの、メンバーは必ずしも強力ではなかった。クラブチームに所属していたケニー・デイビス以外は大学生で、しかも最上級生ではなく2、3年生。平均20.5歳は代表史上最年少だった。

 のちにNBAでオールスターに選ばれるレベルにまで成長した選手も、ダグ・コリンズ(イリノイ州大/元フィラデルフィア・セブンティシクサーズ)とボビー・ジョーンズ(ノースカロライナ大/元シクサーズほか)の2人のみで、当時のカレッジ最高選手だったビル・ウォルトン(UCLA/元ポートランド・トレイルブレイザーズほか)は、ヒザのケガを理由に参加を辞退。ジェリー・ウエスト(元ロサンゼルス・レイカーズ)やオスカー・ロバートソン(元ミルウォーキー・バックスほか)ら将来のスーパースターが揃った1960年のローマ五輪、大学卒の経験豊富な選手が多数いた1968年のメキシコ五輪に比べると、実力も経験も若干不足していた。

 それでも大会が始まれば、アメリカは順調に勝ち上がっていく。予選ラウンド第4戦でブラジルに61−54と苦戦した以外は大勝し、日本には99−33とトリプルスコアをつけ圧倒。前述の惨劇後、最初の試合となった準決勝でもイタリアを難なく退け、同じくここまで全勝のソ連と金メダルを賭けて戦うことになった。
 ■“欺かれた”アメリカ代表。銀メダルの受け取りも拒否

 当時のソ連の主力は、アレクサンドル&セルゲイの2人のベロフ。特にセルゲイは当時のヨーロッパ最高の選手の1人で、迎えた決勝戦でも次々と得点を奪取。試合は終始ソ連ペースで進んでいき、前半を26−21で折り返すと、後半10分には10点まで差を広げた。

 アメリカは得点源のドワイト・ジョーンズ(ヒューストン大/元アトランタ・ホークスほか)が乱闘により退場し、ますます苦しくなっていく。それでもしぶとく食らいつき、1点差の残り3秒、激しいファウルを受けたコリンズがふらつきながらも2本ともフリースローを成功。これで50−49、ついにこの試合初めてのリードを奪った。

 即座にスローインしたソ連だったが、反撃は間に合わないだろうと思われた。ところが「フリースローの間にタイムを要求していた」とソ連が抗議し、選手がコートに出ていたためにゲームは一時中断する。残り1秒から再開され、ソ連がインバウンズパスを投じた直後に試合終了のホーン。アメリカ代表が勝利の喜びに沸きかえるなか、今度は時計が正確にリセットされていなかったと、FIBA会長のレメト・ウィリアム・ジョーンズが言い出した。
 「何が起こっているのかわからなかった。まるでソ連が上手くいくまで、何度でもチャンスを与えるつもりのようだった」(アメリカ代表のマイク・バンタム/セントジョセフ大/元インディアナ・ペイサーズほか)。

 大混乱の末、またも残り3秒から試合は再開される。ソ連はイワン・エデシュコのフルコートパスを受けたアレクサンドルがレイアップを決め逆転。今度は時間が戻されることなく、アメリカの連勝は63でストップした。

 アメリカはFIBAに提訴したが却下され、表彰式に出席せず銀メダルの受け取りも拒否。「実力で打ち負かされたのなら、誇りを持って銀メダルを受け取っていた。でも俺たちは負けたのではなく欺かれたんだ」とバンタムは言う。受賞者のいないメダルは、今もローザンヌ(スイス)のオリンピック博物館の倉庫に(一説には銀行の金庫に)保管されているという。
 ■来るべくして来たアメリカの敗北の日

 当時はベトナムを舞台として、米ソが血で血を洗う戦いを繰り広げていた最中。文字通りの“敵国”から発祥したスポーツで金メダルを手にしたのは、ソ連にとってこの上ない国威発揚の機会となった。

 一方、アメリカにとってこの大会の出来事は“盗まれた栄光”と呼ばれ、忌まわしい記憶として残り続けている。ソ連に勝たせようという陰謀があったのだ、との説も流布し、アメリカ代表ヘッドコーチ(HC)のヘンリー・アイバの訴えを却下したFIBAの委員会は、5人の委員のうち3人が東側国家の人間だったことがその証拠とされた。

 だが2度目の判定に口を出し、時計を戻させたジョーンズ会長はアメリカにとって一番の同盟国であるイギリス人。しかも東ドイツならともかく、西ドイツのミュンヘンでの開催であったことを考えれば、一連の騒動は陰謀と言うよりも、単なる不手際と形容するのが正確だろう。

 そもそも疑惑の判定がなくとも、アメリカは大苦戦し敗北寸前だったのだ。代表のアシスタントコーチだったジョン・バック(のちのシカゴ・ブルズ3連覇時のアシスタントコーチ)は「ソ連代表は400試合も一緒にプレーしていたが、我々はたった12試合だった」と経験の差があったと認めている。アイバHCのディフェンス重視の戦術も、当時すでに時代遅れと見なされていた。
  代表の1人で、NBAを経て下院議員になったトム・マクミラン(メリーランド大/元ホークスほか)も、負けは認めていないが「18歳のガキが実質プロと戦っていたのだから、いずれ負ける日は来るんだ」と語っている。

 この大会を含め4度オリンピックに出場したセルゲイは、ミュンヘン五輪での活躍により、ソ連のスポーツ史上最大のヒーローの1人になった。1980年のモスクワ五輪では、バスケットボール選手で初めて聖火ランナー最終走者として聖火台に火を灯している(2010年バンクーバー冬季五輪にてスティーブ・ナッシュが2人目に)。1992年には海外出身者で初めてバスケットボール殿堂入り。なおアレクサンドルは1978年、セルゲイは2013年に亡くなったが、命日はともに10月3日だった。

 2大会ぶりの五輪となった日本は16か国中14 位に終わるも、エジプト、セネガルのアフリカ勢に勝利。キャプテンの谷口正朋はスペイン戦で39得点を叩き出し、平均23.9点は大会1位。阿部成章も平均14.7点で、谷口ともどもアジア最高と言われたバックコートコンビは実力を存分に発揮した。日本のオリンピックでの勝利は、不戦勝を除き現時点でこれが最後である。

文●出野哲也(フリーライター)

※『ダンクシュート』2019年12月号原稿に加筆、修正。

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