新型コロナウイルスの蔓延でスケジュールが大幅に変わったため、今季のNBAドラフトは例年の6月ではなく、11月の開催となった。NBAのドラフトでは単純に成績の悪かった順に指名するのではなく、抽選の要素を盛り込んだロッタリー制度を採用しており、1985年以降は多少の修正を加えながら、ずっとこの方式を継続している。

 そのきっかけを作ったのが、当時ジョージタウン大にいたパトリック・ユーイング。彼を獲得するために意図的に負け、指名順位を上げようとするチームが出るのを防ぐために、ロッタリー制度は取り入れられた。ユーイングはそれほどまでに有望視されていた選手だったのだ。

 その最初のロッタリーで見事に1位指名権を得たニューヨーク・ニックスがユーイングを指名した頃、遠く離れたオクラホマ州ではジョン・スタークスが大学をドロップアウトしていた。9年後にスタークスとユーイングがNBA王座を懸けて共闘することになろうとは、誰1人知る由もなかった。
 ■対照的な道程を辿ってきた2人のバスケットキャリア

 ジャマイカに生まれ、11歳の時にアメリカに移住したユーイングは、バスケットボールと出会ってその才能を開花させた。1982年、新入生のユーイングをチームの中心としたジョージタウン大は、NCAAトーナメントの決勝まで駒を進めたが、ノースカロライナ大の1年生、マイケル・ジョーダンに決勝シュートを沈められて敗退。これ以降、ユーイングの前には常にジョーダンが立ちはだかることになる。

 それでも、1984年にはアキーム・オラジュワン(元ヒューストン・ロケッツほか)を擁するヒューストン大を破り全米制覇。1985年の決勝では格下のビラノバ大によもやの敗戦を喫したが、ネイスミス賞などの個人賞を受賞したユーイングは、誰もが認める大学No.1センターだった。

 一方、スタークスはまったく正反対の人生を歩んでいた。父が家庭を捨てたため、中学卒業後すぐに就職。兄の勧めでバスケットボールを再開し、ノーザンオクラホマ大に進んだが、奨学金を得られず結局退学してしまう。
  その後もスーパーマーケットで袋詰めをして学費を稼ぎながら、学校を転々とした。短大を含めると4つ目の大学となるオクラホマ州大でようやく結果を出し、ドラフト外で1988年にウォリアーズへ入団。しかし背中を痛めて1年限りで解雇され、1990年はマイナーリーグのCBAでプレーするなど、依然としてスポットライトからは遠い存在だった。

 その頃、ユーイングはNBAのスター選手として揺るぎない地位を築いていた。ルーキーイヤーは平均20.0点、9.0リバウンドをマークし新人王に選出。中距離からのジャンプショットを得意とし、速攻にからむ走力も備えていた彼のプレースタイルは、それまでの典型的なセンターとは異なり、NBAに新風を吹き込んだ。

 だが、その後数年間は周囲が期待するほどの活躍ができず。期待の大きさに加え、ニューヨークという土地柄もあって、ユーイングに対するメディアの論調やファンの反応は厳しかった。

「パトリックは無口だし、開放的な性格ではないからな。ニューヨークとは相性が合わないのも仕方なかったんだ」(チャールズ・オークレー)

 真面目な性格のユーイングは、そうした声に過敏に反応してさらに関係をこじれさせた。「リーダーシップが足りない」「勝負どころで頼りにならない」といった批判は、ユーイング叩きの常套句となった。
  しかし、5年目の1989−90シーズンには自己最高の平均28.6点を記録し、初めてオールNBA1stチームに選出。スタークスがニックスのトレーニングキャンプに姿を現わしたのは、そのオフのことだった。

 首脳陣はスタークスにまずまずの印象を抱いたものの、これといった決め手も感じなかった。キャンプ最終日には解雇する方針が決まっていたが、その日の練習ですべてを覆す出来事が起きる。スタークスがユーイング越しにダンクを試みたのだ。

「チームに残るには、何か特別なことをしなけりゃならないと思っていたんだ」

 その無謀な試みはあっさりと跳ね返され、コートに叩きつけられたスタークスは、足首をひねって担架で担ぎ出されてしまう。しかし、彼のガッツは首脳陣に強いインパクトを与えた。故障者リストに入っている選手を解雇できない規則も幸いし、スタークスは運良くロスターに残ることができたのだった。
 ■動と静の絶妙なハーモニー。強豪ニックスが見事に復活

 1991−92シーズン、ロサンゼルス・レイカーズを3度の優勝に導いたパット・ライリーがニックスのヘッドコーチに就任。ライリーはユーイングに「君を中心にチーム作りをするつもりだ」と明言し、ユーイングもそれに応えてより積極的にリーダーシップを発揮するようになった。

「言葉よりも態度で示すタイプのリーダーさ。決してメディアとかを使って、ほかの選手を批判するようなことはしない。だからこそ、彼のことをみんなが尊敬していたんだ」

 そう語るスタークスもまた、ライリーによって引き立てられた。彼の執拗なディフェンスをライリーは高く買っていた。出場時間が伸びると得点の機会も増え、控えながらもユーイングに次いでチーム2位の平均13.9点をマーク。オールスターのスラムダンク・コンテストにも参加した(結果は4位)。

 そして何より、彼の情熱的なプレーにニューヨークのファンは熱狂した。ついには「スタークスほどニューヨークで人気のあった選手はいないだろう」(ジェフ・ヴァンガンディ元ニックスヘッドコーチ)とまで言われるようになったのだ。
  スタークスには、しばしば感情を制御できなくなる悪癖があった。CBA時代には、激しいスタイルで有名な“バッド・ボーイズ”時代のデトロイト・ピストンズでさえ、あまりのラフなプレーぶりに契約を見送ったという。NBA復帰後も、スコッティ・ピッペンにラリアットを見舞い、レジー・ミラーに頭突きを食らわせ、判定を不服としてレフェリーを追い回すなど、数限りない狼藉を働いた。

 ユーイングは「感情を抑えられなければ、自分の首を絞めることになるぞ」とスタークスに忠告した。だがある意味では、ユーイングとは対照的な闘志剥き出しのプレーに、ニックス・ファンは魅せられたのである。

 もっともコートを離れれば、スタークスは意外なほど家庭的でおとなしい人間だった。

「コート上の俺しか知らない人は、実際に会うと“何だ、本当はいいヤツじゃないか”って驚くんだ」

 こうした性格は、ユーイングとも共通する部分だった。そのためか、2人はやがてチーム内で最も理解し合える間柄となり、共通の友人であるハーブ・ウィリアムズ(元ニックス・ヘッドコーチ)を含めた3人で過ごす時間も多くなった。
  コート上でも2人のコンビプレーは冴えを見せる。スタークスはユーイングからのパスを受け、最大の武器である3ポイントを次々にヒット。相手がスタークスを警戒し始めると、今度はユーイングがフリーになって楽にシュートを打てた。ディフェンスでもユーイングが中を固めているおかげで、スタークスはアグレッシブに守ることができた。

 ライリー就任1年目に地区優勝したニックスは、続く1992−93シーズンは球団タイ記録の60勝を記録。プレーオフではイースタン・カンファレンス決勝でシカゴ・ブルズと対戦した。
  熱戦続きとなったこのシリーズで、最も印象的なプレーが飛び出したのは第2戦の終盤だった。ベースラインから跳び上がったスタークスが、ホーレス・グラントとジョーダンの頭越しに、左手で強烈なワンハンドダンクを叩き込んだのだ。

「今でも、あれほどすごいダンクは見たことがないって言われるよ」

 そう引退後に誇らしげに語ったように、この“ザ・ダンク”はニューヨーク中の語り草となった。

 地元で2連勝と最高のスタートを切ったニックスだが、その後は4連敗。ファイナル進出とはならなかった。(後編に続く)

文●出野哲也

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