■2人のSGに率いられた“ミラクル・ニックス”

 ヒューストンは、同じポジションのスプリーウェルの加入を意外にも歓迎していた。「彼が入っても自分のプレーは変わらない。僕ら2人が同時にプレーできれば、相手に大きなプレッシャーをかけられる。昔クライド(ウォルト・フレイジャー)とアール(・モンロー)がそうだったようにね」。

 ところが、スプリーウェルは開幕2試合で早くも骨折により戦列離脱。復帰後も、1年以上実戦から遠ざかっていたためにプレーに今ひとつキレがなかった。しかも、新人の頃からずっとスターターだった彼にとって、ベンチからの出場ではリズムが掴みにくかった。大黒柱のパトリック・ユーイングの調子も上がらず、ニックスは第8シードで辛うじてプレーオフに滑り込んだ。

 だが1回戦の相手がヒートだったことが、奇跡の呼び水となる。ヒートはかつて2年続けてプレーオフで大乱闘になった因縁の相手。しかもポイントガードは旧敵ハーダウェイとあって、スプリーウェルが燃えないわけはなかった。ニックスが勝利を収めた第1、3戦にはチームトップの得点をマークした。
  そしてドラマが待っていたのは最終第5戦。この日も一進一退の攻防が続き、ヒートがわずかに1点をリードしたまま残り4.5秒。ニックスは最後のオフェンスで、スプリーウェルに最後のシュートを打たせる作戦を授けたが、うまくいかずにボールはヒューストンの手に渡った。「後ろから(ダン・)マーリーが来ているのがわかった。普通にシュートしたらブロックされるかもしれないと思ったので、少し前のめりになりながら打ったんだ」。右手一本でフローター気味に放たれたヒューストンのショットは、リムの前部に当たり、バックボードから跳ね返って、再びリム前部をかすめそのまま真っ直ぐ落ちていった。78-77でニックスが逆転。残り時間0.8秒では、もはやヒートに打つ手はなかった。劇的な逆転クラッチショットにより、史上2度目となる第8シードによる第1シード撃破というアップセットが実現した。

 この勝利でニックスは完全に勢いづいた。カンファレンス準決勝のアトランタ・ホークス戦は4連勝でスウィープ、カンファレンス決勝では長年の好敵手ペイサーズを6戦で葬り、ついに5年ぶりのNBAファイナルまで到達した。サンアントニオ・スパーズとのファイナルは1勝するのがやっとだったが、ヒューストンは平均21.6点と健闘。唯一の勝利となった第3戦でも34点を稼いだ。スプリーウェルはヒューストン以上に活躍し、シリーズ平均26.5点、最終第5戦では35得点。特に後半はほとんど一人でスパーズに食らいつき、マディソンスクエア・ガーデンの観衆を興奮させた。敗れはしたが、この素晴らしいパフォーマンスでスプリーウェルは首絞め事件の悪夢を過去に追いやり、ニューヨークの新たなヒーローとなった。
 ■契約と補強方針を巡って浮上した2人の不仲説

 99-00シーズン、スプリーウェルはニックスと長期契約を締結。オールスターに初出場したヒューストンともども、衰えの目立つユーイングに代わるチームの中心的存在として認められた。プレーオフでもトロント・ラプターズ、そしてヒートを撃破してカンファレンス決勝まで進んだが、ペイサーズに敗れ2年連続ファイナル進出はならなかった。

 結局、ニックスが優勝戦線に食い込んだのはこのシーズンが最後だった。00-01シーズンはプレーオフ1回戦でラプターズに敗退。最終戦で不調だったヒューストンに対し、スプリーウェルが批判的な談話を口にしたため、2人の不仲説も流れた。

 オフにヒューストンは6年間1億ドルという巨額の再契約を結んだが、スプリーウェルはチームが資金をビッグマン、とりわけ彼の親友であるウェバーの獲得に回さなかったとして不快感を隠さず、ヒューストンとの仲はさらにこじれたとも噂された。だがヒューストンはそうした噂を一笑に付した。

「メディアが皆“スプリーとの仲はどう?”なんて訊いてくるからおかしいよね。そもそも僕らの間に何も問題はないんだから」
  だが、この契約によってサラリーキャップが圧迫され、チームの補強策に支障をきたすようになったのは事実だった。スプリーウェルが主張したように、ニックスにとって本当に強化しなければならないインサイドは手薄なままで、ヒューストンの巨額契約は足かせになった。

 確かにヒューストンは重要な得点源だったが、基本的にオフェンス一辺倒で、ディフェンス面での貢献は限られていた。そんな選手に多額の資金を注ぎ込んだことは、その後ニックスが延々と繰り返すことになる失政の最初の一歩だった。

■あっけなく訪れた別離と寂しすぎるキャリアの終焉

「ニューヨークという街、そしてここでプレーできることを好きなれないわけがない。バスケットボール選手だったら誰でも、ここでプレーしたいと思うはずさ」

 ニックスに対する強い愛着を語っていたスプリーウェルだったが、決別の日はあっけなく訪れた。03-04シーズン、4球団を巻き込んだ大型トレードによって、ミネソタ・ティンバーウルブズへ移ることになったのだ。地元ファンの人気は絶大だったが、自家用ヨットで開いたパーティーの席上でケンカをして手を骨折したり、免停期間中に車を運転して逮捕されたりと、コートの外のトラブルが絶えなかったのも放出の原因になった。
  ミネソタではケビン・ガーネットのサポート役としてカンファレンス決勝進出に貢献したものの、良かったのは1年だけ。移籍2年目は契約延長交渉の不調にヘソを曲げて無気力プレーに終始。チームの低迷を招き、自身の評価も落とした。同年限りでウルブズを退団すると、その後どのチームにも所属することなく現役を終えてしまった。

 ヒューストンの現役生活も、意外なほど早く終焉の日を迎えた。03-04シーズンに痛めたヒザが完治せず、04-05シーズンに20試合の出場にとどまると、限界を悟って契約期間を2年残したまま引退を決意した。

「ニューヨーク・ニックスとファンの皆さんに心から感謝します。ニックスでプレーできたことは、私の人生でも最も思い出に残る経験でした。私は永遠にニックスの一員であり、ニューヨーカーなのです」
  3ポイント成功数1305本は当時リーグ史上10位、1万1165得点はユーイング、フレイジャー、ウィリス・リードに次いでニックス球団史上4位。故郷ケンタッキー州のスポーツ殿堂入りも果たした。父ウェイドは99年に同じ殿堂に選ばれており、親子二代での栄誉となる。

 真面目で信心深く、チャリティ活動にも熱心だったヒューストン。キレやすく何を考えているかわからない、揮発油のようなスプリーウェル。正反対の個性を持った2人は、それでも対立することなく共存し“ミラクル・ニックス”を演出した。現在のニックスを取り巻く混乱状態を思えば、そのこと自体が奇跡的なことだったのかもしれない。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2007年1月号掲載原稿に加筆・修正。

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