ユーイングはニックス以外で“スーパーカルテット”を形成する可能性があった!?「実現させようとしたが…」
2000年にトレードで放出されるまで15年間、ニックスに忠誠を誓い続けたが、他球団で“スーパーカルテット”を形成する可能性があったという。
ユーイングは元NBA選手のブレイダン・ヘイウッドとライアン・ホリンズがホストを務めるポッドキャスト『Opinionated 7-Footers』に出演。シカゴ・ブルズやボストン・セルティックス、デトロイト・ピストンズとしのぎを削るなかで、ニックスはユーイングの“単独エース時代”が長く続いたことに関して、ヘイウッドから「あなたにはもっと手助けが必要だったと思う」と質問が飛んだ。
「(ブルズの)マイケル・ジョーダンにはスコッティ・ピッペンがいて、(セルティックスの)ラリー・バードにはケビン・マクヘイル、(ピストンズの)アイザイア・トーマスにはジョー・デュマースがいた。あなたのチームメイトに敬意を欠くわけではないけど、ニックスには第2のスターがいなかった。ハードにプレーするハードワーカーが多かった。どこか(別のチーム)に行くつもりはなかったの?」
するとユーイングは、キャリア序盤に移籍を考え、実現寸前までいった過去を明かした。
「私はリーグで4番目に高額年俸の選手でなければならないと思っていた。セルティックスは私の獲得を考えていたが、結局、条件面で折り合わなかった。私はゴールデンステイト・ウォリアーズに行くことを考えていた。クリス・マリン、ミッチ・リッチモンド、ティム・ハーダウェイがいることを想像してみてほしい。実現させようとしたが、うまくいかなかったからニューヨークに残った」
ティム・ハーダウェイ、ミッチ・リッチモンド、クリス・マリンは1989年からの2シーズン、ウォリアーズで共闘。速攻で攻めるラン&ガンスタイルで旋風を巻き起こし、“ランTMC”の異名を取った。そこにユーイングが加わっていたとなれば、今でいう“ビッグ3”ならぬ“ビッグ4”が結成されていたことになる。幻に終わった夢のカルテットに、ヘイウッドとホリンズからは「もはや反則レベルだ!」と驚きの声が上がった。
ユーイングはインタビューの中で、キャリアで最も優勝に近づいた1993−94シーズン、98−99シーズンについても回顧している。
「私たちはファイナルに2回出場した。そのうち1回(1998−99シーズン)は、不幸にも(アキレス腱の)ケガで試合に出られなかった。でも、私たちは良いチームだったし、素晴らしい戦いをしていた。実際には対戦していないから“おそらく”と言わざるを得ないけど、マイケル擁するブルズを倒せるチャンスがあった年(1996−97シーズン)にチャーリー・ウォードとPJ・ブラウンの乱闘が起こった。私はコートに足を踏み入れたあとに、すぐに戻ったけど、第6戦を出場停止になった。正直、腹が立ったよ」
ニックスは97年のカンファレンス準決勝でマイアミ・ヒートと対戦。3勝1敗と王手をかけて迎えた第5戦、ウォードとブラウンのもみ合いをきっかけに両チームの選手が入り乱れる大乱闘に発展した。ヒートはブラウンのみが出場停止となったが、ニックス側はユーイングやアラン・ヒューストンら主力がベンチを離れたために第6戦を出場停止となり、最終的に第7戦で敗れて逆転での敗退を喫した。
「パット・ライリーはニューヨークを去って、マイアミに行った。知っての通り、私とアロンゾ(モーニング)は友人だ。だけどひとたびコートに立てば、激しくやり合っていた。パット・ライリーはニューヨークで、最もタフでフィジカルに強いチームを作ろうとしていた。そして、マイアミでも同じことをしようとしていた。同じアイデンティティーを持つチームが激突するんだ。何が起こってもおかしくない。チャーリー・ウォードがPJ・ブラウンをボックスアウトしようとして、それに苛立って掴んでコートに投げ飛ばした。でも、私たちはシカゴやインディアナともやり合っていた。今とは違うが、当時はリーグ全体でもそれが当たり前だった。チームには究極のヒットマン(チャールズ・オークリー)がいたしね」
もし、乱闘が起こらず、ニックスがカンファレンス決勝でジョーダン擁するブルズと対戦していたら――。ユーイングのキャリアは違ったものになっていたかもしれない。
構成●ダンクシュート編集部
【PHOTO】NBA最強の選手は誰だ?識者8人が選んだ21世紀の「ベストプレーヤートップ10」を厳選ショットで紹介!