「もし僕らに勝ったら、初心者マークが付いた真っ赤なポルシェがもらえます! 負けた方には、車検落ちの軽トラが届きますんで」

 その一言に、参加者たちからどっと笑い声が上がった。

 和歌山市のテニスクラブ「ワカヤマテニススクール」で行なわれた、ダイドードリンコ協賛のテニスクリニックでの1コマ。ゲストコーチの加藤未唯の新車をネタに、金髪ロン毛の男性が、軽妙なトークで場の雰囲気を和ませていった。

 往年の名プレーヤー、ビヨン・ボルグを模したいでたちは、今やテニス会場やイベント等でおなじみの姿。彼の顔はテニスファンなら、おそらくは誰もが一度は目にしたことがあるだろう。ただ彼が何者か、そして彼がテニスに注ぐ情熱を知っている人は、もしかしたら少ないかもしれない。

 芸名“ボヨン・ボルグ”あるいは“バモス!わたなべ”。本名、渡邉弘征。

 現在の肩書は“テニス芸人”。
 そんな彼の、もともとは、そして行く行くは……。人懐っこい笑みにボッチャリ体型がトレードマークのお笑い芸人の、横顔に迫ってみよう――。
 「実は僕、いつ“芸人”でなくなっても良いかなって思っています。テニス関係者として、テニスに携わっていければ」

 短く刈り込んだ黒髪の青年が、真摯な口調で想いを丁寧に紡ぐ。彼のアイデンティティを構築する成分は、今や「テニス」が「芸人」を上回っているという。

 そんな彼のテニスとの出会いは、宮崎県延岡市に住む高校時代。理由は「ラクそうだから」という、いわば消去法だった。

「僕、高校に入るまではラグビーやバレーボールをやっていたので、高校でもバレーやりたかったんです。なのに入った高校には、男子バレー部がない。でも学校の方針として、部活に必ず入れという感じだった。だったら一番ラクそうな部にしようと思って、テニス部にしたんです」

 当時のテニス部は部員も少なく、開店休業状態。ところが彼が入学した年に、生徒そのものが増えたこともあり、部員数が急増した。しかもその大半は、軟式テニスの経験者。全くの初心者の渡邉少年は、彼ら軟式上がりには歯が立たなかった。

 ただ、なかなか勝てないだけに、ポイントを取った時の高揚感は「団体競技では味わえないレベル」だったという。上の存在を抜いていく疾走感も、彼をテニスにのめり込ませた。
 「テニス雑誌を全部買って、レッスンページを切り取ってホッチキスで止め、バインダーに入れて学校にも持っていってました」

 そんな彼のアイドルは、鈴木貴男とティム・ヘンマン。
「バレーボールをやっていたので、サーブだけはうまかった。なのでサーブ&ボレーヤーが僕の憧れでした」

 寝ても冷めてもテニスのことを考えるような日々を経て、腕は急激に磨かれる。2年生時には延岡市の一般大会で、ダブルス優勝するまでになっていた。

 ところが、それほどまでに青春を捧げたテニスに、彼は高校卒業と同時に別れを告げる。子どもの頃から抱いたもう1つの夢……「お笑い芸人」を追うためだった。持っていたラケットも全て後輩に渡して郷里を離れ、1年間のバイト生活でお金を貯める。そして貯金を手に上京すると、吉本興業の養成所に入学した。19歳の時である。

 夢を携え始めた、東京での芸人暮らし。だが待っていたのは、夢への距離が縮まらぬ日々だった。

 養成学校を卒業すれば、よしもとクリエイティブ・エージェンシーの所属芸人にはなれる。ただそこからは、ピラミッド型のヒエラルキーに組み込まれ、ライブで笑いを取って上を目指す、実力主義の勝負の世界だ。
  固定給はなく、バイトで日銭を稼ぎながら地方のコンテストに出るも、「上位1割には入れても、優勝はできない時期が3〜4年続いた」。その間に、養成所で同じ釜の飯を食べた同期からは、スポットライトを浴びる者たちも出ていく。

「僕らの代は“華の15期”と呼ばれていて、おかずクラブ、鬼越トマホーク、横澤夏子さんらが出た当たり年。その一方で、1000人いた東京養成所の同期の中で、今年11年目を迎えて残っているのは20人ちょっと。売れていく同期を見ながら、みんなバンバン辞めていったんです」

 渡邉が「こいつとダメだったら諦めよう」と見込んだ相方も、同期が浴びるスポットライトの陰で、芸人生活に幕を引いた1人だった。

 コンビ解消が決まったその日、2人で訪れたカフェで、辞めゆく相方が渡邉に言った。
「そんなにテニスが好きなら、テニス使った芸やったらいいんじゃない?」。

 その時、自身も辞める気でいた彼の胸に、最後の灯火が点る。
「確かに、テニス芸人を名乗っている人はあまりいないな。最後の悪あがきをやって、それでダメだったら本当に辞めよう」

 芸人生活8年目の、晩冬の日だった。(〜後編に続く)

取材・文●内田暁

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