ツアー中断前の男子テニスは、ノバク・ジョコビッチ独裁の四半期だった。

 今年産声を上げた国別対抗戦「ATPカップ」では、6戦全勝で母国セルビアを初代王者の座に牽引。しかも決勝では、シングルスでラファエル・ナダルを破り、ダブルスでもビクトル・トロイツキと組み勝利を得る、獅子奮迅の活躍を見せてである。

 続く全豪オープンでも、ジョコビッチの疾走は止まらない。6試合で1セットしか落とさぬ盤石の強さで、周囲に畏怖の念を抱かせつつ決勝へ。その頂上決戦の舞台で、全豪7度の優勝を誇る帝王に果敢に挑んだのは、準々決勝でナダルを破ったドミニク・ティーム。通算3度目のグランドスラム決勝で、3度目の正直となる戴冠を目指す次代の王者候補筆頭だ。

「僕ら若い世代は、とてもタフな時代にいる。優勝するためには常に、信じがたい“レジェンド”たちを倒さなくてはいけないのだから」
  決勝戦を控えたティームは、自身が生まれた時代の不運を、少しばかり嘆くかのような言葉をこぼす。それでも、長く“次世代の騎手”を務める男は、篤実な語り口調に矜持の色を込めて言った。「この数年間、僕の最大の課題の一つが、強い選手に勝った次の試合で負けてしまうことだった。だが経験を積み、このような状況に幾度も面しながら、僕は成長してきた」と。

 自らのこの言葉を、ティームは決勝の舞台で証明する。ジョコビッチ相手にセットカウント2−1とリードすると、第4セットでも第3ゲームでブレークポイントを手にし、悲願のトロフィーへと大きく前進しようとしていた。

 だが……後に両者が「あのポイント」と振り返る分岐点をつかみ取ったのは、奇策とも言えるサーブ&ボレーを試みた、ジョコビッチだ。

「サーブ&ボレーは、僕が得意なプレーとは言えない。滅多にやることもない。だからこそ、あのような状況では効果的な戦術だと思ったんだ」

 意表を突く一つのプレーが、相手の予測プログラムを破壊し試合の流れを劇的に変えうることを、ジョコビッチは経験から知っている。果たしてこの決勝戦も、そのような試合の一つとなった。
  最も優勝に肉薄しながらも、僅かに届かなかった悲願の銀杯。それでも表彰式でティームは、「あなたたち3人(ジョコビッチ、ナダル、ロジャー・フェデラー)が、テニスを新たなレベルに引き上げた。この時代に自分が戦えていることを、誇りと光栄に思っています」と、さらなる成長を自身に誓った。

 なおこの後も、ジョコビッチはドバイオープンで優勝。年が改まってから負け知らずのまま、コロナ禍による3月のツアー中断期を迎えた。

 5月間の停止を経てテニス界が動き出した時、そこにあるのは、少しばかり様変わりした景色の中で、変わらず続くジョコビッチの支配だった。

 ナダルは全米オープンを含む北米シリーズは欠場し、フェデラーはヒザにメスを入れ、早々に今季の終了を表明する。それら“BIG3”のうち2人を欠くなか、ジョコビッチはカナダ・マスターズでも優勝。連勝を23にまで伸ばし、全米オープンを迎えた。
  そのジョコビッチの独走を止めたのは、あまりに意外な存在であることは、まだ人々の記憶に新しいだろう。4回戦のパブロ・カレノブスタ戦で、ジョコビッチが苛立ち紛れに後方に放ったボールが線審を直撃。この行為によりジョコビッチは、大会規定に則り失格に処されたのだ。

 かくして第1シードが姿を消し、実に6年ぶりにBIG3以外がグランドスラムを制することが確実になるなか、決勝に勝ち上がったのは第2シードのティーム。そして反対側のドローを踏破したのが、23歳のアレクサンダー・ズベレフ。彼もまた、20歳にしてジョコビッチやフェデラーを破りマスターズ優勝を成すなど、BIG3の厚い壁に穴をうがってきた、世代交代の尖兵である。
 「ティームが、圧倒的な優勝候補」――メディアを賑わすそれらの声が、第2シードを「ものすごく硬くさせた」ことを、本人は後に明かしている。決勝の立ち上がりから表情がこわばり、ショットに本来のパワーを欠くティーム。

 対するズベレフは、広角に打ち分けるストロークから最後はネットで決めるパターンで、面白いようにポイントを重ねていく。第1、第2セットを奪い、第3セットも23歳の挑戦者が先にブレーク。このままあっさり勝負は決するかに思われた。

 だが今度はズベレフが、優勝の重みに身体の自由を奪われる番だ。サービスの確率が落ち、フットワークも重くなる。その相手の乱れを逃さず第3セットをもぎ取ったティームが、第4セットも奪取。

 そして第5セットでは、両者が等しく、心のゆらぎをさらけ出した。互いにチャンスを取り切れず、ファイナルセットのタイブレークにもつれ込んだ精神戦――。その死闘を制し、最後コートに大の字に倒れ込んだのは、「どうしても優勝したかった。凄まじいプレッシャーの中で戦っていた」と涙した、ティームだった。
  一部メディアでは、「ここ数年のグランドスラムで、最も質の低い男子決勝戦だった」と、心無い言葉も囁かれた試合ではある。ただ、両者ともに優勝の可能性を強く信じる中で、人間味溢れる感情の動きにより、グランドスラムタイトルの価値を浮き彫りにした大会でもあった。

 その価値を毀損することを禁ずるかのように、ティームは続く全仏オープンで、疲労困憊の身体を引きずりながらベスト8へと進出。激動のシーズンの掉尾を飾るATPファイナルズでは、優勝には及ばなかったものの、ナダルとジョコビッチの両者を破り、同大会で2年連続決勝進出を果たす。

 この結果によりティームは、ナダル、ジョコビッチ、フェデラーの全てから5勝以上挙げた、史上2人目の選手となった。

文●内田暁

【PHOTO】2020年全米でグランドスラム初優勝を果たしたティームのプレー集