「間違いなく、僕にとってローランギャロスでの最高の試合だ。そしてキャリアを通しても、トップ3に入る試合だった」

 熱戦のコートから会見室に直行したラファエル・ナダルに続き、すぐにインタビュールームの椅子に座った勝者は、興奮冷めやらぬ様子で言った。

 これまでに57もの対戦を重ね、通算成績はノバク・ジョコビッチが29勝で相手をわずか1つ上回る。ただ全仏オープンに限れば、7勝1敗でナダルが大きくリード。特に昨年の決勝で、ナダルが6-0、6-2、7-5でライバルを圧倒したことは、人々の記憶にも強く焼き付いていた。

 今回も、ナダルが勝つだろう——。準決勝を控え、会場やプレスルームを満たしていたのは、そのような空気だった。
  デュースを重ねた立ち上がりの2ゲームがいずれもナダルの手に渡り、たちまちゲームカウント5−0とリードを広げた時、入場規制の上限に達した5000人の観客の脳裏には、8カ月前の光景がよぎっただろう。だが1年前と大きく異なっていたのは、表層的には同じに見えるスコア下での、ジョコビッチの内面だ。

「結果はどうであれ、ナーバスにはなっていなかったし、ボールを打つ感覚は非常に良かった。問題は、彼のボールにどうアジャストしていくかだけだった。彼の球質は、他の選手とは全く違う。特に、強烈なスピンが掛かりコーナーに叩き込まれるフォアハンドは」

 昨年の敗戦を糧とし、「明確な戦略的プランを用意していた」というジョコビッチは、ここから異なるシナリオを描きはじめる。まずはサービスゲームをキープすると、そこから3ゲーム連取。結果的に第1セットはナダルの手に渡るが、ナダルの球質にも慣れ始めたジョコビッチが、内容的には肩を並べる。気温の下降に伴い低くなったバウンドも、世界1位に味方しただろうか。第2セットは、ジョコビッチが取り返した。
 
 そして……、後にプレスルームの記者たちが、「テニス史上最高のセット」と声を上げた、この試合の分水嶺が訪れる。
  ネット際に落とされたドロップショットを、地面ぎりぎりで救い上げたナダルがさらに鋭角に沈める。コーナーをえぐるナダルのフォアの逆クロスを、絶対に追いつけないと思われたジョコビッチがフォアのクロスでウイナーを決める。

 ロブを背走するナダルが、振り向きざまに打ったショットがネットをかすめ、待ち構えていたジョコビッチに当たる場面もあった。

 ショットバラエティ、ラリー構築力、フィジカル、そして、運——。

 テニスが有する全ての要素を、極限まで研ぎ澄まし集束させたセンターコートに、世界中の関係者たちの視線も注がれていた。

 アンディ・マリーは「クレーコートで、これ以上のテニスはできない。パーフェクトだ」とつぶやき、ヘザー・ワトソンも「もしテニスファンでないなら、今すぐこの試合を見て。必ずファンになるから‼」とツイートする。準々決勝でナダルからセットを奪ったディエゴ・シュワルツマンですら、「彼らが今やっているテニスは、僕らと同じ競技なの?」と絶句したほどだ。
  互いにチャンスを得て、しのぎ、肩をぶつけ合うように走り込んだタイブレーク。その終盤で心の揺らぎを見せたのは、赤土の王者の方だった。決定的に見えたボレーが、芯を外してラインを割る。最後は、やや浮いたドロップショットを、ジョコビッチが打ち返した。

 耳に手を当て、ファンの歓声に身を浸すジョコビッチ。第3セットが始まってから、1時間27分が経過していた。

 この時点で、時計の針は夜の10時38分を指す。23時以降の外出が禁じられるパリの条例に従えば、観客が帰される時間だったが、大会は特例的に残ることを認めた。熱狂の叫びをあげ、さらなる熱戦を期待するファン。

 だが実質的な勝敗は、第3セットが終わった時点で決していた。疲労の色を見せるナダル相手に、ジョコビッチが0−2から6ゲームを連取。それはナダルが、2005年から出場しているこの大会で、わずか3つ目の敗戦を喫した瞬間だった。

 ジョコビッチが、感極まった表情で万雷の拍手を浴びた時から遡ること、4時間半——。

 同じセンターコートでは、22歳のステファノス・チチパスが、勝利インタビューで涙に声を詰まらせていた。初のグランドスラム決勝の切符をかけて対戦したのは、2歳年長のアレクサンダー・ズベレフ。
  対戦成績で5勝2敗と上回るチチパスは、クレーでは一層の相性の良さを発揮した。特にバックの打ち合いでは、外に切れるように跳ねるスピンと強打を織り交ぜ、相手の武器を巧みに封じる。フランスのムラトグルアカデミーを拠点とし、少年時代から優勝を夢見たローランギャロスで、チチパスが2セットを連取した。

 ここまでの展開を見れば、勝敗の行方は決したかに見える局面。だが、1回戦でも2セットダウンから巻き返したズベレフは、心身に余力を残していた。ドロップショットも巧みに用い、ストロークで押し込めば迷いなく前に出てボレーで決めた。瀕した危機はことごとく、200キロ超えのサーブでしのいでいく。

 パワーと戦略性を兼備し、ボレーも合理的なポイントパターンと捉える新時代のテニスの体現者の戦いは、かくして最終セットにもつれこんだ。

 その立ち上がりのゲーム。勢いに勝るズベレフが3連続ブレークポイントをつかむも、ここをチチパスがしのいだことで、流れは再び反転した。

 第4ゲームをブレークしたチチパスが、最後はワイドに鋭く切れるエースで終止符。ズベレフと健闘を称え合い、ベンチへと戻る勝者の眼には、すでに涙で滲んでいた。
  いずれも準決勝でキャリア最高級の勝利をつかみ取り、大きな感情の高ぶりを見せた二人は、それぞれ等価ともいえる価値を持つ、栄冠を求め決勝の舞台に立つ。

 ジョコビッチにとっては、ナダルとロジャー・フェデラーが持つグランドスラム最多記録に肉薄する、19個目のタイトルをかけて。チチパスにとっては、家族や恩師らが見守る中での、初のグランドスラム戴冠を掛けて。

「彼を倒すにはエネルギーを必要とする。可能な限り回復に努める」。ジョコビッチは会見で表情を引き締め、チチパスは「自分には、ノバクに勝つ力があることを示す時が来た」と遠くを見やる。

 “ビッグ3”が支配の時を伸ばすのか。あるいは、超然とした空気をまとう若きギリシャ人が新時代の扉を開くのか。決戦の火ぶたは、6月13日、現地時間の午後3時(日本時間22時)に切られる。

現地取材・文●内田暁

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