3月1日の日本武道館大会で、新日本プロレスは創立50周年記念の『旗揚げ記念日』を数多のOBを招いて開催した。だが、本当の50周年は今日6日となる。50年前の1972年3月6日、新日本は大田区体育館(現在は建て替えられた大田区総合体育館)で旗揚げをした。

 メインイベントは、アントニオ猪木がカール・ゴッチに挑んだ師弟対決。後者が勝利を収めたのだが、猪木の“負けの美学”はここから始まったと言ってもいいだろう。

 ちなみに私は1973年7月生まれで、新日本プロレスの存在を知るのは、1981年4月23日。初代タイガーマスク(以降タイガー)のデビューがキッカケだった。よって私にとってプロレス・ファン歴は41周年になる。

 金曜の夜8時になると、タイガーの入場をテレビで見るのが日常だった時代。翌日の土曜日、学校での話題はタイガー一色だった。私たちの世代は、猪木の試合よりも、アニメ『タイガーマスク2世』から飛び出してきたタイガーの四次元殺法の方が強烈だったのだ。

 もちろん猪木とはぐれ国際軍団による抗争や、アンドレ・ザ・ジャイアントら大物外国人選手との試合も見ていた。だが、タイガーの次に興味を持っていた藤波辰巳(現在は辰爾)と長州力の抗争に比べると当時は劣って見えていた。
 猪木の魅力に気づくのは、引退が近づくにつれて、馳浩、グレート・ムタ、ビッグバン・ベイダーとの闘いのなかで凄みを感じ、そこから昔の試合を見返してからである。

 そんな私にとって、藤波も長州もタイガーも出場しなかった(タイガーは最終戦のみ出場)1983年に開催された第1回『IWGP』は、今思えば凄まじい大会だった。会場も熱気に溢れていたのだが、当時は退屈だった印象が強い。

『IWGP』優勝決定戦で、猪木がハルク・ホーガンにKOされ、欠場を余儀なくされた翌日の『サマーファイトシリーズ』で、私の地元である神奈川県横浜市金沢区六浦に新日本が奇跡的にやって来た。地元の商店が一体となって誘致したのだ。

 控室が特設テントという屋外会場ながら、私の人生初の生観戦は、ここで実現した。前座で長州&アニマル浜口が出場し、タイガーは星野勘太郎とのタッグで出場した。ラッシャー木村とタイガー戸口、坂口征二とアブドーラ・ザ・ブッチャーなど地方大会とは思えぬ好カードが組まれた。

 メインでは藤波、木村健悟、前田明(現在は日明)が、ディック・マードック、アドリアン・アドニス、ブライアン・ブレアーに快勝した。やっとタイガーの試合を生で観られたのに、彼はこのシリーズ終了後、引退を表明してしまう。ショックだった。 ここで私は、いわゆる“タイガーロス”になってしまった。だが、新日本から離れていく友だちがたくさんいるなか、藤波がいる限りは応援しようと子ども心ながらに誓った。ちなみに、どら増田の“どら”は、藤波のニックネームである「ドラゴン」が由来となっている。

 1983年4月3日、蔵前国技館(現在は両国へ移設)大会で、藤波が保持していたWWFインターナショナルヘビー級王座に、革命軍団(後の維新軍)をマサ齋藤と結成した長州が挑戦した試合は、新日本50年の歴史を語るうえで、タイガーのデビュー戦とともに欠かせない試合である。

 この試合に至るまで、反則絡みの決着が続いていた両雄だが、この大一番だけは、ただの喧嘩ファイトではなく、猪木時代のプロレスとは違った斬新なストロングスタイルを繰り広げた。

 今見ても色褪せないほど、とにかくスピーディー。最後は膝を痛めた藤波を長州が強引なラリアットで3カウントを奪取してタイトルは移動した。藤波ファンの私にとっては、今でも悔しい結末ではあるが、この試合を越える闘いは長州の引退までなかった。

 ただ、タイガー引退で団体としても、人気低迷の危機に陥った新日本を藤波と長州の名勝負数え唄が救ったのは事実である。
 長州は1984年9月に新日本を離脱。ジャパンプロレスを旗揚げし、新日本のライバル全日本プロレスを主戦場にした。後の1987年にUターンして新日本に復帰するのだが、この間も団体を守り続けたのは、藤波だった。

 藤波は、全日本のエース、ジャンボ鶴田との対戦を夢に描いていた。唯一、1990年2月10日の東京ドーム大会に鶴田が出場したときが、チャンスだったが、この時は藤波が腰痛で欠場。最後までファン待望の対決は実現しなかった。

 後に「あの時がチャンスだったよね。あの日は会場で観てて、悔しかった。その思いが全日本の会場に向かわせたんだよね」と語った藤波は、同年5月にアポなしで全日本の東京体育館大会を訪問。ジャイアント馬場、鶴田らに挨拶をしている。

 馬場は日本プロレスの後輩でもある藤波に「何かあったら言って来いよ」と話し、大会を観戦する藤波の姿は日本テレビ系『全日本プロレス中継』にも抜かれていた。日本テレビに新日本の選手が映るのは当時としては画期的なことだった。 1999年6月に新日本の社長に就任した藤波。彼はこの時期を「悪夢の5年間」と話している。離脱者が多く出るなど、新日本にとって波乱の時期で長きに渡り低迷を招いてしまったからだ。

 そんな藤波も2006年に新日本を退団した。創立メンバーで、日本プロレスから新日本旗揚げに参加してからは、新日本一筋で来ていただけに、「自分でも辞める日が来るとは思わなかった」と語る。

 その後、無我を経て、ドラディションを旗揚げした藤波だが、いまなお新日本プロレス愛は不変である。あるとき、「新日本の試合は見たりするんですか?」と聞くと、「深夜のハイライトのテレビは見てますよ」と答えてくれた。
 WWE殿堂入りをするなど新日本退団後も輝かしい経歴を作ってきた藤波。ゆえに先日の日本武道館大会で記念マッチながら、現在の新日本のメインでオカダ・カズチカ、棚橋弘至とのトリオを結成してしまうとは、本人も夢にも思わなかっただろう。

 古巣のリングにふたたび登場した藤波は、3.27大阪城ホール大会への参戦も決まっている。大阪城ホールといえば、前田日明との名勝負が印象深い会場だ。

「我々もいろんな形でサポートしていきたい」と誇らしげに語った“ドラゴン”には、往年のシンニチイズムを見せ続けてもらいたい。

※敬称略

取材・文●どら増田

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