7月31日に88歳で死去したビル・ラッセルは、NBAファイナルの最優秀選手賞にその名を残している。ファイナルMVPは、ほかならぬマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)の6回が最多受賞記録。マジック・ジョンソン(元ロサンゼルス・レイカーズ)も3回受賞しているが、ラッセル自身の受賞経験は一度もない。賞の創設が1969年で、ラッセルの引退した年だったからだが、なぜジョーダンを差し置いてラッセルの名が冠されたのか?

 そんな疑問は、ラッセルの現役時代を振り返ればたちどころに解消される。アメリカプロスポーツ史上、空前絶後のリーグ8連覇を成し遂げたボストン・セルティックスの大黒柱。今なお史上最高の選手として彼の名を挙げる者も少なくないのだ。
 ■ラッセルが確立した“守備こそ勝利のカギ”

 NBA創設時からの歴史を持つセルティックスも、当初から強いチームではなかった。1950年にレッド・アワーバックがヘッドコーチになり、“コート上の魔術師”ボブ・クージーがポイントガードに定着してからも、 ファイナルには進めずにいた。

 その原因は、強力なビッグマンの不在にあった。1955-56シーズンはジャック・ニコルズの625リバウンドがチーム最多で、リーグでは12位。 平均失点105.3も同ワーストだった。1956年のドラフトで、 セルティックスがターゲットをラッセルに絞ったのも、そうした状況を考えれば当然だった。

 ルイジアナ州生まれ、オークランド育ちのラッセルは、高校時代まではさほど注目されていなかった。だがサンフランシスコ大に進学後は、並み外れた身体能力と天性のタイミングによってリバウンドとブロックショットを量産。大学3年間の通算成績は20.7点、20.3リバウンド。1955、56年にはNCAA選手権2連覇、56連勝も記録した。

 ところがセルティックスは、1巡目の指名権をテリトリアル・ピック (地域優先指名)でトム・ハインソーン獲得のために使っていた。そこでアワーバックは、2位指名権を持つセントルイス(現アトランタ)・ホークスにトレードを打診。セントルイス出身で、オールスターに6年連続で出場していたエド・マコーリーとクリフ・ヘイガンの2選手を差し出し、商談は成立した。
  メルボルン五輪に参加後、金メダルを手土産にチームに加わったラッセルは、早速リーグ1位の平均19.6リバウンドを記録した。シュート力は低く、得点の多くはティップインによるもの。センターを攻撃の中心に据えていたチームが多かった時代には珍しい選手だった。

 それでもアワーバックに「査定に得点は含めないから、攻撃のことは考えなくていい」と約束されたことで、ディフェンスとリバウンドに集中。とりわけブロックショットはNBAに革命をもたらした。彼のブロックは闇雲にボールを弾き飛ばすのではなく、一種のパスのように、味方にボールが渡るように計算されていた。ディフェンシブなプレーであると同時に、ファストブレイクの起点ともなったのだ。

 カリーム・アブドゥル・ジャバー(元レイカーズほか)は「今の若い選手は、(ブロックの際に)観客席までボールを飛ばして悦に入っているが、勘違いも甚だしい。最高の選手からブロックショットの真髄を学べた私は幸運だった」と語っている。

 ラッセルが後ろに控えている安心感で、ガード陣のディフェンスもよりアグレッシブになり、逆に相手はブロックを恐れてまともにシュートを打てなくなった。こうして平均失点を前年より5.1点も減らしたセルティックスは、初出場のファイナルでもホークスを下し優勝。ラッセルとセルティックスは「ディフェンスこそ勝利のカギ」との新たな常識をNBAにもたらした。
 ■怒涛の8連覇の始まりと伝説となったライバル対決

 2年目の1958年にはリバウンドを平均22.7本まで伸ばし、MVPを受賞。ファイナルで足首を負傷し、第3戦以降を欠場したためホークスに敗れたが、続く1959年のファイナルではミネアポリス(現ロサンゼルス)・レイカーズに4連勝。怒涛の8連覇はこの年から始まった。 クージーやビル・シャーマンら第一世代の主力選手が去った後も、大学時代からのチームメイトであるKC・ジョーンズや、ジョン・ハブリチェックらが台頭してラッセルとともに王朝を支えた。

 1960年代のNBAで最大の呼び物だった、ウィルト・チェンバレンとのライバル対決も忘れてはならない。 プロ入り前からの友人同士で、サイズ、スピード、パワーのすべてで他を圧倒したチェンバレンは、ラッセルですら完全には抑えきれない史上最高の得点マシンだった。
 「私とウィルトは競争相手であり、ライバルとの表現はふさわしくない。ライバル関係には勝者と敗者が存在するが、我々は2人とも勝者だった」と語るラッセルだが、チームとして必ず勝利を手にしたのはセルティックスだった。

 プレーオフでは直接対決が8回あり、チェンバレンの所属するチームが勝ったのは1966年だけ。「セルティックスでは誰も個人記録を気にしない。全員がチームの勝利のため、力をひとつに合わせている」とラッセルが誘ったように、抜群のチームワークが勝利を紡ぎ出した。
  チェンバレンが平均50.4点を叩き出した1961-62シーズンも、MVPに輝いたのは18.9点のラッセルだった。同年から3年連続MVP、通算5回の受賞はチェンバレンの4回を上回る。

「いろいろな要素が絡む個人賞に興味はない。私にはコート上の勝敗がすべてだ。ここには政治的な要素がなく、白黒がはっきりつけられるから」と語っていたラッセルだが、数字に表われない彼の貢献度が正しく評価された結果だった。(後編に続く)

文●出野哲也
※『ダンクシュート』2009年7月号原稿に加筆・修正

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