ドクターJ(ジュリアス・アービング)やモーゼス・マローン以外にも、ジョージ・ガービン、デイビッド・トンプソンら実力派選手が多数プレーしていたABAだったが、慢性的な財政難を解消できず、76年にNBAとの統合に合意。その際ドクターJは、リーグ加盟金の捻出を迫られたネッツからフィラデルフィア・セブンティシクサーズへ、300万ドルもの巨額のトレード・マネーで移籍した。 

 マローンは分配ドラフトによってポートランドに指名された後、バッファロー・ブレーブス(現ロサンゼルス・クリッパーズ)を経てヒューストン・ロケッツへトレードされた。

 シクサーズ加入後、ドクターJの成績は下がったが、これは当時のチームがリーグ有数のタレントの宝庫であるせいだった。その証拠に、この年シクサーズは10年ぶりにNBAファイナルへ進出。 ポートランド・トレイルブレイザーズに敗れたものの、ドクターJがいる限り、近い将来必ずNBAの頂点に立つ日が来ると予見できた。
  一方のマローンも、ロケッツ移籍後リーグ3位の平均13.1リバウンドを記録。マローンの疲れを知らぬプレーぶりを、のちにロケッツのヘッドコーチとなったデル・ハリスは、「普通の選手は1試合で50回リバウンドに跳んで10本ぐらい取るものだが、 モーゼスは1試合に100回跳んで20本取るんだ」と表現した。マローンは年を追うごとにゴール下での支配力を増していき、78−79シーズンには平均24.8点、リーグ1位の17.6リバウンドをマークし、ついにMVPを獲得した。

 ドクターJは80年、再びNBAファイナルの舞台へ戻ってきた。ロサンゼルス・レイカーズとの第4戦ではベースラインからジャンプし、空中でディフェンスをかわしながらボード裏からレイアップを沈める伝説的なプレーを披露したが、6戦で敗退。翌80−81シーズン、平均24.6点をあげてNBAでは初のMVPを受賞するが、カンファレンス・ファイナルでボストン・セルティックスに敗れた。NBAの王座は近いようでいて遠いままであった。

 この年、セルティックスとNBAファイナルを戦ったのがマローンのロケッツだった。第4戦まで2勝2敗と互角の勝負をしていたが、マローンが 「セルティックスなんて、俺の田舎のストリートバスケの連中を連れてきたって勝てるさ」と失言したのが災いし、第5、6戦に連敗して敗れ去った。■ついにNBAの頂点に立ったABA最強デュオ

 続く82年、3度目のNBAファイナル進出を果たしたドクターJだったが、またもレイカーズの前に2勝4敗で敗退。さしものアービングも、この結果には落胆した。ラリー・バード、ロバート・パリッシュ、ケビン・マクヘイルの強力フロントラインを形成するセルティックス、そしてマジック・ジョンソン&ジャバーの黄金コンビを擁するレイカーズの両方を続けて倒すには、1人の力では足りなかった。

 シクサーズは頂点に立つための最終手段として、前年に平均31.1点、14.7リバウンドの凄まじい成績で2度目のMVPを受賞していたマローンをトレードで獲得した。リーグ解体から6年、ついにABAの生み出した最高の選手2人がチームメイトとなる日が来たのだ。

 リーグでも1、2を争う実力者2人が同じチームになることを懸念する声もあった。ロケッツの大黒柱として長年君臨し続けたマローンが、ドクターJの下でナンバー2に甘んじることができるのだろうか?

 しかし、それはまったくの杞憂だった。周囲が思う以上に、マローンは自分の立場をわきまえていた。
 「シクサーズが誰のチームかって? ドクのチームに決まってるじゃないか。俺はシクサーズが優勝する手助けをするために来たんだ。俺が何かを変えようなんて思ってないよ」

 少年時代から尊敬の的だったドクターJとともに優勝を目指すのが彼の唯一の目標であり、個人的な栄光はすべて捨て去る覚悟で彼はフィラデルフィアへやってきた。

 ドクターJも、その態度に感銘を受けた。

「モーゼスほどアンセルフィッシュな選手はそうはいない。完全にチームに溶け込んでいるし、皆に敬意を払っているよ」

 プレースタイルも性格もほとんど正反対の2人だったが、勝利への渇望とバスケットボールに対する情熱という、最も大事な2つの部分では完全に一致していた。

「俺たちは今シーズン、70勝するぜ」

 マローンの大胆不敵な宣言で幕を開けた82−83シーズン、シクサーズは無敵のチームとなった。57試合目で早くも50勝に到達し、この時点まで連敗は一度もなかった。最終的にはリーグ最多の65勝をあげ、マローンは平均24.5点、15.3リバウンドで3度目のMVPを受賞。プレーオフはどう戦うのかと聞かれたマローンは、自信たっぷりにこう答えた。

「フォー・フォー・フォー」

 プレーオフの3ラウンドすべてで、4戦全勝してみせるという意味であった。 これまで何度も大口を叩いて失敗してきたマローンだったが、今度こそはほぼ宣言通りの展開となった。カンファレンス準決勝でニューヨーク・ニックスに4タテを食らわせ、ミルウォーキー・バックスとのカンファレンス決勝は第4戦を落としたものの、第5戦に勝ってNBAファイナルへ進んだ。

 相手は前年王者のレイカーズだったが、ジェームズ・ウォージー、ボブ・マッカドゥーらの主力を故障で欠いた状態では、ドクターJ&マローンの強力コンビの敵ではなかった。

 瞬く間に3連勝して優位に立つと、第4戦も前半終了時に14点あった点差を見る見るうちに詰め、試合残り2分からドクターJの7連続得点で一気に突き放して16年ぶりの優勝を決めた。ファイナルMVPには、ジャバーを攻守に圧倒したマローンが選ばれた。

 普段はクールなドクターJも、さすがにこの時ばかりは喜びを爆発させた。ビリー・カニンガムHCは、「彼のことは昔から知っているが、これほどエキサイトしているのは初めて見た。まるで21歳の頃 (アメリカでは大人になったばかりの時期を意味する) に戻ったようだったね」と笑みを浮かべた。
 ■正反対の2人を結んだ信頼と尊敬の強い絆

「どこにも栄冠を渡すつもりはありません。私たちの時代は、これから始まるのです!」

 フィラデルフィアのダウンタウンで行なわれ優勝記念セレモニーで、ドクターJは力強くファンに向けて挨拶した。しかし、その約束が叶えられることはなかった。

 翌84年のプレーオフでは、格下のネッツ相手にまさかの1回戦敗退。85年には新人のチャールズ・バークレーが入団したが、もはや35歳のドクターJに全盛期の力は残されていなかった。

 マローンも85−86シーズンを最後にワシントンへトレードされ(バークレーはその日のことを「人生で最も悲しい日」と呼んだ)、2人のコンビはわずか4年で終わりを告げた。 ドクターJは翌86−87シーズン限りで引退。マローンはキャリアの晩年にはジャーニーマンと化しながら、40歳まで現役を続けた。 バークレーは入団当時、新人の仕事であるベテラン選手の身の回りの雑用係として、マローンに付き従った。彼にとってドクターJは雲の上の存在として近づきがたかったようだが、マローンには私生活上の注意も含めていろいろなことを学び、「バスケットボールの師匠」と仰いだ。その様子が、彼の自伝では生き生きと描かれている。

「ドクはハードにプレーし、つまらぬトラブルを避けながら、いつも大いなる人気を誇った。コートでは身体で模範を示した。他の選手は、指をくわえて彼のプレーを羨むだけだった……だが、コート以外の場所でもリーダーシップを発揮し、チームをひとつにまとめ、選手からベストプレーを引き出す本当の意味でのリーダーはモーゼスだった。俺が困った時には助言をし、ジョークを言って気分をほぐし、問題を抱えている時には話し相手にもなってくれた」
  2001年、マローンはバスケットボール殿堂入りを果たした。そのセレモニーには、すでに93年に殿堂入りを果たしていたドクターJも祝福に訪れた。2015年にマローンが60歳で亡くなった際、ドクターJは『スポーツ・イラストレイテッド』の取材にこのように答えて、旧友との別れを惜しんだ。

「シクサーズにいた頃、私たちはお互いの誕生パーティーに必ず顔を出す仲だった。引退後も誕生日にはメッセージを送っていた。そのような友人のリストは、年を経ていくうちに短くなっていく。でもモーゼスは、最後までそのリストから外れることはなかった」

 バークレーは、前述の自伝で次のように述べている。

「ジュリアスとモーゼスの2人がいたからこそ、シクサーズはNBAを制するチームに必要な感情的バランスを保持できたのだろう」

 ABAとNBAとをつなぎ、新たな時代を切り拓いた2人の英雄は、長いNBAの歴史の中でも最も尊敬される、偉大な存在であることに疑いはない。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2006年5月号掲載原稿に加筆・修正。