バレーボールの元男子日本代表で女子代表監督を務め、1972年のミュンヘン五輪で金メダル獲得に貢献した横田忠義さんが5月9日夜、病気のため北海道旭川市内で亡くなっていたことが16日に分かった。75歳。

 横田さんは香川県三豊市出身。県立多度津工業高校から中央大学に進学し、1年の66年に19歳で日本代表に。
 1968年のメキシコ五輪で銀メダルを獲得後、70年に松下電器(現パナソニック)入り。同年代の大古誠司さん、森田淳悟さんとともに「ビッグスリー」と呼ばれ、男子バレー全盛期を人気でも支え、72年のミュンヘン五輪金メダル獲得に貢献した。76年のモントリオール五輪では4位入賞。
  78年に現役引退後は、新日本電気(現NECホームエレクトロニクス)の監督を経て、94年には女子日本代表監督に就任した。

 翌年に退任後は、バレーの指導・普及に務め、約10年前から北海道旭川市に居を移していた。
 関係者によると、病気療養中だったという。

 横田さんは、1964年東京五輪後、男子代表監督に就任した松平康隆氏(元日本バレーボール協会名誉会長)が、ミュンヘン五輪での金メダル獲得を目標に立案した「8年計画」を実現するために発掘した1㍍90台の大型若手選手の一人。

 ともに19歳で代表入りし、「世界の大砲」と命名された大古さん、「一人時間差」攻撃を編み出した森田さんに対し、横田さんはパワーあるスパイクやバックアタックなどで「クロス打ち」の名手と呼ばれた。

 中央大、松下電器の先輩で、ミュンヘン五輪でもともに戦った木村憲治・元日本バレーボール協会会長は「半年ほど前に、松下のOB達と会食した際に電話で近況を報告し合ったばかり。病気をして車イス生活だが体調は悪くないと聞いていただけに、驚いています」と語った。

 普段は温厚だが、勝負へのこだわりは誰よりも強かった。木村さんは「世界の大砲と呼ばれた大古の方が剛のイメージを持たれるかもしれませんが、実際には横田の方がコートに入ると、ここで決めるんだという思いは大古より強いように感じた」という。
  高校時代から腰を痛め、ミュンヘン五輪でセットカウント0-2から「奇跡の大逆転」と呼ばれたブルガリア戦では、試合途中にベンチに退き自転車のゴムチューブを腰に巻き付ける荒療治でコートに戻り、プレーを続けた。
 
 木村さんも「腰の痛みを和らげるため、自転車のチューブを腰に巻いてプレーしていた姿が今も目に浮かびます」と偲ぶ。

 そのブルガリア戦を、横田さんは「最も印象に残る試合でした。あの試合で、人生は最後まであきらめてはいけないんだということを学びました」と振り返っていた。

 両エースと呼ばれた大古さんとは、良きライバルだった。大古さんによると、金メダルを獲得した夜、選手村の部屋で「お前は本当にすごい選手だ。オレはお前を認める」とお互いをたたえ合い、大好きなお酒を酌み交わし朝まで語り明かしたという。

 ミュンヘンの仲間とは松平夫妻を囲む「ミュンヘンの会」で定期的に会合を持ち、コロナ禍までは松平夫人を囲んで旧交を温めていた。森田さんは「約7年前に北海道で開いたミュンヘンの会で会ったのが最後。代表入りする前年の18歳から付き合いが始まりましたが、無名でキャリアのない私は、全国大会経験者の彼がいてくれたおかげで助かりました」と振り返る。

 「派手なことはしなくていい」という生前の横田さんの言葉を守り、長男で元男子日本代表の一義さんら家族らに見送られた横田さん。
 天国で松平さんや、83年に早世したセッターの猫田勝敏さんらとバレーボール談義をすることだろう。

取材・文●北野正樹

【著者プロフィール】
きたの・まさき/1955年生まれ。2020年11月まで一般紙でプロ野球や高校野球、バレーボールなどを担当。関西運動記者クラブ会友
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