船舶事業で実業家の仲間入りをした内田信也(うちだのぶや)は、山下亀三郎、勝田銀次郎と並んで三大船成金の一人に数えられています。三井物産の社員だった内田は独立して、小さいながらも海運会社を始めます。その大当たりから造船業や貿易業にも乗り出し、巨万の富を築きました。

 内田の成金精神を象徴する言葉として「金はなんぼでも出す」が語られる。内田が守りたかったものとは? 市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

大きな転機となった三井物産退社 再出発は神戸居留地の2階家屋の2階部分から

 内田信也が1971(昭和46)年、91歳で他界したとき、旧制水戸高校(俗称、水高)の同窓会を代表して小川栄一藤田観光社長が弔辞を捧げた。

 「先生は財界を志され努力奮闘功なり大正8(1919)年水戸に高等学校を設置のため、当時において莫大な金100万円をご寄付されました。郷土を愛され、同時に水戸学を敬愛され、郷里の子弟を中心として教育立国のためにこの美挙に出られました」

 当時の100万円は大金である。大阪の株式仲買兼相場師、岩本栄之助が中之島中央公会堂の建設資金に100万円を投じてマスコミで大きく報じられたころである。船成金の代表として内田、山本唯三郎、勝田銀次郎、山下亀三郎の4人はさしづめ四天王の観を呈していた。

 内田は自伝『風雪五十年』で、大きな転機となる三井物産退社の経緯について概略次のように書いている。

 「大正3(1914)年、北海道炭鉱汽船(北炭)の磯村豊太郎社長から営業部長として来ないかと誘われる。当時の北炭といえば、鐘紡と並んで三井閥を代表するビッグネームである」

 この時、内田は34歳、海運部門の主任(部長級)として采配をふるっていた。内田はその気になるが、三井物産側が内田を手放すことに難色を示し、話がこじれる。折しも欧州の戦雲が急を告げる。

 「この際いさぎよく宮仕えをやめ、好機をつかむにしかずと決心し、神戸に帰るや、7月4日は月曜だったと思うが、あたかも米国独立記念日だったので、この日を卜(ぼく)して神戸居留地の2階家屋、家賃250円というのを、一軒まるまる借りる資力のないまま、2階だけ月100円で借り、ささやかなスタートを切った」