戦後70年以上が経過した現在、戦争の記憶は風化の一途をたどっています。そうした戦争の記憶や証言は、戦争の悲惨さを後世に伝えて平和を考える上でも貴重になっています。

 一方、戦時から秘密にされて、今なお全容が解明されていない部分もあります。
 神奈川県川崎市にあった登戸研究所もそのひとつです。現在、登戸研究所のあった場所は明治大学の生田キャンパスになり、その一画には明治大学平和教育登戸研究所資料館がオープンしています。

 当時の登戸研究所は、大日本帝国陸軍が秘密戦のために兵器や資材を研究・開発するシンクタンクとして機能していました。登戸研究所内での研究・開発はどれも秘匿性の高いものばかりでしたが、その中でも特に第3科が担当した偽札製造はトップシークレットとされていました。

少しずつ明らかになってきた偽札製造

 1939(昭和14)年から開始された登戸研究所の偽札製造は終戦まで続けられました。そして、終戦日となった8月15日に登戸研究所の所員たちは、進駐軍に押収されては後々に自分たちが罰せられるとの理由から関係書類や実験器具をあらかた焼却処分しました。特に、偽札製造に関する物品や文書は徹底的に廃棄され、関係者たちは堅く口を閉ざしました。

 関係書類や実験器具などが焼却処分されてしまったことで、登戸研究所がどんな存在だったのか? そして、どんな研究や実験をしていたのか?といった実態が掴みづらくなっています。

 戦後70年以上を経た今、全容解明まで至らないものの登戸研究所が手掛けてきた偽札製造も少しずつ謎が明らかになっています。

朝鮮戦争時、紙質粗悪な旧ソ連パスポート偽造で米軍に協力

 登戸研究所は敗戦によって解散し、第3科が取り組んでいた偽札製造にも終止符が打たれました。しかし、偽札製造そのものが終わっても、偽札製造に携わった所員たちは戦後の日本を動かすことになります。

 登戸研究所の技術者たちは、誰一人戦犯として裁かれることがありませんでした。情報提供を条件に免責されたという説もありますが、日本に進駐してきたアメリカ軍は登戸研究所の高い技術力に目を着けていました。

 日本が無条件降伏した後、世界情勢はアメリカとソ連が対立するとの観測が強くなっていました。アメリカは朝鮮半島を巡ってソビエト連邦(ソ連)との対立が起きることを想定。その事態に備えて、登戸研究所の技術力を自陣に取り込もうとしたのです。

 1950(昭和25)年、アメリカが危惧していたように朝鮮戦争が勃発します。アメリカ軍に要請されて、登戸研究所の元所員たちはアメリカ軍に技術協力することになりました。元所員のなかでも、特に重宝されたのが偽札製造を担当した第3科の科長・山本憲蔵でした。明治大学教授で明治大学平和教育登戸研究所資料館の山田朗館長は、こう話します。

「朝鮮戦争で偽札製造を担当していた第3科の元所員たちはアメリカ軍に技術協力することになりますが、偽札を製造して経済を混乱させるという任務はほとんど与えられなかったようです。アメリカが登戸研究所の偽札技術に着目したのは、パスポートの偽造を目的にしていたからです。当時、ソ連の製紙技術はレベルが低く、パスポートも紙質が悪かったのです。それが、かえってアメリカの技術力では偽造しにくいということになり、登戸研究所の元所員たちに協力を仰ぐことになったようです」。