西野亮廣にとって、この1年はまさに激動だった。2020年末に公開された『映画 えんとつ町のプペル』が大ヒットを記録し、日本アカデミー賞受賞や10を超える世界的映画祭でのノミネートに導いた一方で、デビュー以来20年間在籍してきた芸能事務所を退所。そして、そんな波乱のさ中に創作し続けた最新絵本『みにくいマルコ〜えんとつ町に咲いた花〜』が5月31日に発売された。『映画 えんとつ町のプペル』がハロウィン限定再上映中だが、本作はその後のえんとつ町が舞台。切なくも美しい恋の物語でありながら、どこか今後の西野が進む道を「深読み」させる。はたしてどのような思いでこの作品を描いたのか、語ってもらった。

■抱きしめようと思ったら傷つけてしまう。だから離れるしかなくなる
――新作絵本の『みにくいマルコ』ですが、かなり生々しく西野さんらしさを感じたんです。「芸人という青春の時期があって、この作品でそれと別れを告げるような感じ」がすごくしました。

たしかに! 吉本退所の時期も重なっていたっていうのももちろんありますもんね。

――たとえば、モンスターたちが劇場終わりに皆でそぞろ歩きしている絵がありますが、なんとも西野さんらしい視点だな、と。

なんば・千日前に『baseよしもと』って劇場があったんですけど(キングコングは2003年の劇場リニューアルを機に卒業)、その劇場出番の終わりに皆で飲みに行くときとか、下北沢でライブして皆で「ちょっと打ち上げに行こっか」みたいなときのワンシーンですね。やっぱり、懐かしみながらこのページを描いてますね(笑)。
――『みにくいマルコ』は『えんとつ町のプペル』の3年後の世界が舞台です。大きな変革を(えんとつ町のプペルの主人公の)ルビッチが起こして、社会がすごく変わりました。結果、いいことがたくさんあったんでしょうが、一方で“割りを食った”連中も出てきます。そんな新しい社会にうまく適合できなかった人間たちが、『天才万博』という見世物小屋で芸を披露して食いつなぐ。それがすごく芸人さんっぽいですよね。

まさに、まさに。うまく社会になじめなかった人っていうのは、そこに行くしかないっていう。僕がそうだったんですけど、学校の成績もあんまりよくなくて大学も行けないし、っていうヤツはそこ(芸人)ぐらいしかなくて。でも、そこだったら受け入れてもらえたし夢を見れたんですよ。ただ結論を言うと、あまり長居できなかった(苦笑)。先ほど話した絵、baseよしもとの終わりのあの感じとか、下北のライブのあの感じとか、むちゃくちゃ幸せだったんですけど、もう戻れないっていう。あの受け皿ですら「無理になっちゃったな」という感じですね。

――幸福を捨てても出て行かざるを得ない理由があったんですか?

こんなことを言うと、ちょっとカドが立つし鼻につく話ではあるんですけれど、「会話」がうまくできなくなってしまった。「こんなことをしたら面白いかも」っていうことをやればやるほど、他人とズレが出てきてしまう。まさか誰かを攻撃しようと努力しているわけではないんですけど、結果的に僕の一挙手一投足が誰かを攻撃しちゃったりだとか、誰かを追い込んでたりだとか。頑張れば頑張るほど、他人と一緒にいられなくなってしまいました。

――物を作る人の常かもしれませんが、どんどんと孤独に向かっているような……。

『えんとつ町のプペル』を作っていたときはまだ、人とちょっとは会ってたんですよね。でも最近はあんまり会ってなくて。というのは、全然話が合わなくなってる。飲んでる席で、「世界一になろう!」なんて言うヤツは当たり前ですけど普通いないので(笑)。どっちが上とか下とかでは決してないんですけど、「レギュラー番組を増やしたい」って言う人たちの中で、「いや、世界を獲りたいんだけど」って言ったら、「何言ってんだ、お前」みたいになるじゃないですか。それがやっぱり……。昔はね、吉本に集まっている者同士、「そうだよね、そうだよね」って話が超合って、打ち上げしてるときとか、むっちゃ楽しかったんです。でも、むちゃくちゃ頑張って「次は海外だ!」ってぶち上げたら、この受け皿(芸人の世界)でも、受け入れられなくなっちゃった。それで結局、「人に会わなくなったなー」みたいな(苦笑)。

でも、だからこそ、「作品は尊いな」と思ったんです。人に会う回数は減りましたが、映画みたいな皆が見られる作品をボーンと出したら、たくさんの人、海外の人までもが観てくださる。「ああ、ここで、接点を持てるんだな」と思ったんです。だから、(映画の)『シザーハンズ』と一緒です。エドワード・シザーハンズっていう、手がハサミのヤツが、(愛する人を)抱きしめようとしたら肌を切っちゃったり、人を傷つけちゃうんです。結局アイツも人間の世界にいられなくなって、離れるしかなくなる。

――憧れて入った芸人の世界で大好きな人たちに近づけば近づくほど、本意ではないけれども相手を傷つけてしまう。そんな自分をモンスターのように感じて、(みにくいモンスターである)マルコに自分を重ねて描いた、ということなんでしょうか。

僕、こないだ芸人の先輩2人と飲んで、酔っぱらった勢いで「どこで折り合いつけてるんですか?」って聞いたんです。「このへんでいいや、っていうのがどこかにあるんですか?」って。僕はデビュー2年目ぐらいからインターネットというものがあって「世界」を意識することができましたが、先輩方には世代的にそういう意識はなかった。だから、「別に折り合いをつけてるわけではないんだけど、(世界なんて)考えたこともなかった」っておっしゃって。

そういう方々に対して飲んでる席で、「アメリカでね」とか「フランスでね」とかいう話をしたときに、「この人たちもすげえ頑張ってるのに、劣等感をおぼえさせるようなことをやっちゃってるよな」と思ってしまった。だって、立派なことじゃないですか。テレビの世界で頑張って、YouTubeもやって、ご家族を養って。だけど僕がそこに割って入って、自分が一番面白いと思うことをしゃべっちゃったら、「西野のあと、もう何も言えないじゃん」みたいな雰囲気になっちゃうっていう。ああ、これはなかなかシビアだなあっていうのがありましたねえ……。

■自分の話しか描かない、そういうことにした
――今回の絵本の主人公であるマルコですが、カバーのスケッチ画を見ると、口が糸で縫われていて耳もちぎれていて、と異形です。このような設定にした理由は何でしょうか。

作品の中の理由と、僕の気持ちはちょっと別なんです。作品の中では理由を説明していないんですが、「えんとつ町の秘密を知ってる」からなんです。絶対に知られちゃいけないえんとつ町の秘密を知ってるから、えんとつ町を支配してる人に「しゃべるなよ」ということで縫われてしまっている。一方で、僕のほうに置き換えると、「もうお前はしゃべるな」っていう(笑)。いまはSNSで、何かの事件や現象に意見を言うだけでポイントが獲れるじゃないですか。もっと言うと、それでお金稼ぎもできて生活していくこともできる。でも、それをして何になるんだって。それは誰かに任せて、お前は作り手なんだから、「黙って作っとけ」っていうことで縫いました。……ときどき漏れますけどね(笑)。

――中を見ていくと、『天才万博』の舞台袖にたたずむマルコと光あふれるステージの絵ですが、光と影のコントラストが強烈で、ものすごく距離を感じます。でも西野さんは、NSC在学中に注目を浴びて若くして成功を収められました。それでも「心情的に、舞台が遠い、スポットライトがまぶしい」という感覚があったんですか?

『baseよしもと』は230人ぐらいのキャパの、ほんとにちっちゃいちっちゃい劇場だったんですけど、舞台袖から、フットボールアワーさんとか、ブラックマヨネーズさんを観たときの感じがこれで、あまりにも遠くてキラキラしてて、まあ歯が立たないんですよ。僕らはこないだまで高校生だし、まだ(養成学校に)在学中だし。先輩方はどっかんどっかんウケていて、そのあと自分たちが出て行ってもウケない、毎日そんなんなんですね。そうするとステージ上の演者さんがもう輝いて見えて。隣に『なんばグランド花月』っていう劇場があるんですけど、そこに行ったら師匠方が1000人を相手に落語をされたりだとか、漫才をされたりだとか、それも輝き過ぎていて。たった5、6メートルの話なんですけど、もう、遠すぎて。あそこにいつ行けるんだ僕は、みたいなことを描いたのがこのページですね。

――次ページの、カーテンコール時にスポットライトを浴びる仲間たちの輪に入れないマルコの絵も、当時の西野さんの心情を表しているんですか?

そうですね。普通、ステージに立つのって(デビューして)5年とか6年とかやってからだと思うんですけど、幸か不幸か僕らは1年目から立たしてもらってはいたんです。ただ、「全然スポット当たってねえな」っていう感じはありました。ただ出てるだけで、自分たちのことは誰も観ていない、っていう。タモリさんとかがあそこにいて、あそこに行けねえなあみたいな感じはやっぱありましたね。ほとんどの芸人さんはこれですよ。芸人さんの話ですね、これは。

――そこで仲間ができて、助けてもらって。でも、やがて離れて行かざるを得なくなる。本筋はマルコとララの美しい恋の物語ではあるんですが、芸人・西野亮廣の物語でもありますよね。

そうですね。自分の話しか描かない、そういうことにしましたね。

――今回、過去作と比べたときに、「絵」がより立体的だったり「動的」であるように感じましたが、映画の影響が大きくあったのでしょうか?

むちゃくちゃあります。(前作絵本との間に)アニメーションを挟んだのはやっぱりでかくて、それで結構、絵本のスタッフさんと衝突したんです。「キャラクターが止まってる」「ダメだ」って。動作中の動き――力の入り方とか、筋肉の浮きどころとか、骨の位置……何回も直して送って、それはむちゃくちゃ衝突しました(笑)。だって、絵本『えんとつ町のプペル』のときはオッケーだったものを、映画を挟んだとたんに「そんなのダメだ」っていうのは、スタッフからしたら「お前、こないだまでこれオッケーって言ってたやないか!」って話なので。

――その甲斐あって、寄り引きのメリハリとブレによる躍動感が素晴らしいですね。

たしかにカメラ的、一眼レフ的ですよね。絵本って平面で、輪郭がちょっとぼけてたりだとか、ピント合わせとかないですもんね。やっぱり、すごく映画の影響はでかいですね。

■どれだけ愛しかろうが、ひとりに時間を使ってる場合じゃない
――物語に、ララの婚約者のピーターというキャラクターが登場します。ララと親しくなったマルコを陥れる人物でもあるわけですが、マルコがピーターに復讐するシーンも、彼がララから三下り半を突き付けられるシーンもありませんでした。ピーターが罰せられることで留飲を下げたかった、そんな気持ちもしたんですが、なぜ西野さんはそれを描かなかったんですか?

たとえば、僕が何かアクションを起こすと必ず(ネガティブなことを)言ってくる人がいるんです、「これに絡んだら再生回数を稼げる」とか「アンチの票を取れる」とか。でも、彼らを懲らしめたところで何も終わらない。次にアクションを起こしたら、またネガティブな反応が来て……これを全部終わらそうと思ったら、論破みたいなことはまったく不毛だなと思うんです。そんなことより、僕は「生きる」っていう。

「やり返す」のは結局、いつまで経っても恨みの連鎖みたいなことで、しかも僕は何か言ってくる人に対してやり返そうと思ってこの世界に入ったわけじゃない。面白いものを作ろうと思ってこの世界に入ったので、この人たちに時間を使うのは、まったく無駄だなあって。(西野の先輩でお笑いコンビの)ロザンの菅広文さんがこの点について、「(懲らしめない西野は)優しいようで結構残酷」みたいなことをYouTubeでおっしゃってたんですけど、まったくその通りだと思います。自分の時間には限りがあるので、相手している時間がもったいない。だからやり返すのはやめました。

――復讐劇を描かないのは優しさでもあるんじゃないですか。西野さんは否定してくる相手にも寄り添おうとするじゃないですか。他人の気持ちや正義に寄り添う人だから、誰かを罰するような気持ちにならないのかな、とも思ったんです。

何でこの人はこんなことを言うんだろう、どんな理由があるんだろう、っていうのは考えますね。それで、映画ではバッシングしてしまうほうも描いたんです。絵本では尺が足りないのでそれは描いてないですけど、考えはしますね。そうするとやっぱり、攻撃する人にも正義があるんだろうな、褒められた正義かどうかはともかく、一応正義はあるんだろうな、って……。なんかね、「懲らしめてやったぜ、ガハハハ」で終わるような話はあんまり好きじゃないんですよね(笑)。

――絵本では「勧善懲悪」だとか、教育的なテーマが主題になるケースが多いじゃないですか。西野さんは「悪い行いをしたら罰があたる」みたいなことはテーマにしたくないということですか?

そうですね、無理に“教育”みたいなものを絡めるのは……。「日本」のことを考えたときに、今なんでこんなに国がヘタっちゃったのかというと、シンプルに「海外に売れるものを作ってない」っていう(笑)。味方同士、村の人同士で懲らしめ合って――AさんがBさんを懲らしめて、今度はBさんがAさんを懲らしめる――これを30年ぐらいやってきて、その間、何も生産しなかったっていうことで国が貧しくなったと思うんです。となると「悪いことをしたら罰せられますよ」ということよりも、「物を作らなきゃダメだよ」ということを教えたほうが、はるかに有意義だと思うんです。だから、悪いことしたら怒られるよとか罰が当たるよって、何も生み出さない感じがするんですよね。

――でも、どこかでピーターがララにフラれている証拠は探したかったんです(笑)。すると裏カバーに、口を綴じるヒモがなくなったマルコとララの2ショットを発見しました。

まあ、どっかでフラれてると思うんですけど(笑)、だから、わざわざ描かない。

――今後、「みにくいマルコ」のその後が描かれることはあるんですか?

あります、あります。また、マルコは出てくるんです。ちょうど今描いてる絵本が、『えんとつ町のプペル』の続編なんですが、そこでちらっと出てくるかもしれないですね。マルコの口の紐をすっと抜く瞬間があるんで。「君は何を黙らされてたんだ」っていう瞬間が来るんで。(えんとつ町を舞台とした物語は)長い話なんですよ。

――西野さんは「ハッピーエンドしか描かない」と公言されているじゃないですか。ただ、マルコを読んでも、やっぱり西野さんの「ハッピーエンド」の定義が普通じゃないと思うんです。現在の西野さんにとっての幸福って何なんでしょう。

「まあ(いずれ)死ぬな」と思ったんです。肉体はどこかでなくなるじゃないですか。ただ、作品に関してはなくならない。例えば、仮に花火を上げ始めたのが僕だとして、もし僕が死んだとしても、花火が皆に望まれているものであれば、来年も誰かが上げてくれるわけじゃないですか。で、そうやって続いたら、「この花火を作ったのは50年前の西野っていうヤツだよ」って形でこいつは存在できるじゃないですか。

「誰かと結ばれる」とか、「何かを得る」っていうことよりも、自分が作ったものが死んだあとも世の中に残ることのほうが幸せになっちゃったんです。僕は今、会社で動いている人間なんですけど、ちゃんと確かなものを作っておけば、20歳下の後輩とかそのご家族が食っていけるので。以前はもっともっと私利私欲だったんですけど――まあ今も私利私欲であることは変わらないですけど――その欲みたいなものの中でも、「次の世代が食えるか食えないか」っていうことのほうが重要度が高くなっちゃったっていうのがありますね。だから人と結ばれたいとか、そういうことに興味はあんまりないですね。

――男女に置き換えると、求めるっていうことよりも、与えていくっていうことのほうが、西野さんとしては幸福の在り方として美しい、ということなんですか?

そうですね、僕は。その代わり、花火を作れないっていうことは苦しくて仕方がないんです。作品しかない。そっちになりましたね。

――でも、多くの人は西野さんのようには花火を打ち上げられないですよね。

だから、共感もへったくれもないなと思うんです。でも、それでいいなと思ったんです。自分のエゴを出してるんだから、皆が共感できるものを作ってどうするんだ、っていう。作り手の苦悩とか、世界戦に打って出たヤツのストレスだとか恐怖だとか寂しさみたいなものが、共感できるわけがないじゃないですか。人生でうれしいと思うことって、たぶん一般の方だったら「子供が生まれた」とか「結婚した」とかだったりすると思うんですけど、僕は明らかにそっちではないので。「まあ共感はされないな」ってちょっと諦めてますね。だからこそ作品の意味がある。自分と全然違う価値観がこの作品の中で広がってるっていうことに意味があると思い始めました。

――この「みにくいマルコ」ですが美しい愛の物語の裏で、西野さんの宣言――直接会ったりという形じゃなくて、花火を打ち上げることに魂のすべてを注いで、遠く離れたところからできるかぎり美して楽しくて幸せなものを届ける――ということになるんでしょうか。

まさに、まさに。あとやっぱり、例えその人がどれだけ愛しかろうが、自分の時間を誰かひとりだけに使ってる場合じゃない、っていう。だから結局、作品になりましたね。

西野亮廣●にしの・あきひろ。芸人、絵本作家。2009年『Dr.インクの星空キネマ』で絵本作家デビュー。第4作絵本『えんとつ町のプペル』が70万部に迫るベストセラーとなり2020年末に映画化。興行収入24億円をこえる大ヒットを記録し、日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞を受賞。またアヌシー国際アニメーション映画祭ほか世界各国の映画コンペティションにノミネートされるなど、快進撃を続けている。