日本四大公害の1つ「四日市公害」で患者らの全面勝訴となった訴訟の判決から、7月24日で50年が経った。当時の公害を知る語り部も今では3人に。コンビナートの夜景は今では「工場萌え」と呼ばれて人気を集めているが、美しい夜景の裏側には、当時幼くして失われた命もあった。50年前の教訓を語り継ぐ活動を取材した。

■「四日市公害裁判」判決から50年 ぜんそくで9歳の娘を亡くした女性の思い

 石油化学コンビナートで発展した、三重県四日市市。今から50年前の夏、津地方裁判所四日市支部は、「汚染物質の排出については、経済性を度外視し、世界最高の技術・知識を動員して防止措置を講ずるべき」という判決を下した。いわゆる「四日市公害裁判」だ。

市の中心部にある「四日市公害と環境未来館」でいま開かれている判決から50年の企画展では、当時、小学生の女の子が書いた作文が展示されていた。

【作文より】 「尚子は(縄とびを)跳ばんとき、咳が出るやで、やめときと言いました」

書いたのは、谷田尚子さん。四日市公害によるぜんそくで、わずか9歳で命を奪われた。

尚子さんの母、谷田輝子さん(87)。今も、当時のことを鮮明に思い出す。 尚子さんの母親・輝子さん: 「疲れるとすぐに(咳が)出るから、どこも連れていけない。何かもさせられない、運動会も出れへんし、かわいそうでしたわ」

輝子さん: 「尚子のことはしょっちゅう夢に見てますよ。いつも出てくると、『もうじき死ぬ、もうじき死ぬ』という夢ばっかり。必ず言っています」 コンビナートから約2キロ、近鉄四日市駅の近くで育った尚子さん。小学2年の時、公害認定患者になった。

輝子さん: 「いつも言うてました。『なんで私だけがこんな苦しむのか』ということは、しょっちゅう言うてました」

煙から逃げるように、工場から10キロ離れた菰野町に引っ越した谷田さん一家。尚子さんも徐々に回復したかに見えた。

しかし4年生のある日、ぜんそく発作、「お父さん注射して」との言葉を最後に亡くなった。公害裁判の判決から1か月後のことだった。

 もう二度と「公害」という悲劇が起きないように、谷田さんは7年前から「語り部」として三重県内の子供たちに尚子さんの物語を伝えている。

輝子さん(語り部として): 「四日市がだんだん栄えて、うちも商売しておりましたから、よかったなって。まさか自分の娘がコンビナートにやられるとは、夢にも思っておりませんでした」

輝子さん(語り部として): 「夜になると、工場から煙がどんどん出るようになりました。まっすぐに寝れなくて、いつも布団を前に置いて横になるという、考えられない寝方をするようになりました」 輝子さんが授業で語って聞かせる相手は、当時の尚子さんと同い年くらいの子供たち。髪の長い女の子がいると、みんな尚子さんに見えてしまうという…。

輝子さん: 「ゆっくり寝られない。だからあの子が亡くなった時に、わたし泣きながら『尚子ちゃん良かったね、ずっと寝られるね』って…」

■公害よりも経済が優先された時代 悲劇を伝える「語り部」はわずか3人に

 1960年代から70年代、戦後の復興の国策として三重県と四日市市は「石油化学工場」を沿岸部に誘致。コンビナート地帯となり、石油を原料に洋服の生地や家電製品の部品など様々な物が作られ、四日市だけでなく日本の経済成長を推進した。

一方、コンビナートからの排水で、伊勢湾で獲れる魚は油臭くなり売り物にならない状況に。さらに工場から出る「亜硫酸ガス」で、周辺の住民らが次々とぜんそくを発症。「四日市ぜんそく」と名付けられた。

息が吸えても吐き出しにくく、苦しさのあまり自殺する人も…。尚子さんのように発作で亡くなる小中学生もいた。それでもコンビナートの建設は止まらず、経済が優先された時代だった。

 1967年9月、ぜんそく患者らが原告となり、大気汚染の原因を作った工場に責任の追及と損害賠償を求める裁判を起こした。「四日市公害裁判」だ。

1972年7月24日、下されたのは患者側の「勝訴」判決。国が公害対策へ動き出すきっかけとなった。

裁判を契機に公害対策が進み、企業は1000億円をかけて「亜硫酸ガス」の除去装置などを作った。三重県は工場ごとに亜硫酸ガスの「総量規制」を実施し、国よりも厳しい環境基準を設けて判決の4年後に下回った。

判決から50年、公害を体験した語り部は高齢化が進み、谷田さんを含め3人だけとなった。

■今も認定患者は307人 公害の体験談を冊子にまとめて子供たちに伝える活動

 元高校教師の伊藤三男さん(76)。公害の歴史を語り継ぐ市民グループ「四日市再生 公害市民塾」のメンバーだ。

次の世代にどう伝えて行くか。判決から50年に合わせ、当時小中学生だった8人などから、公害の苦しい体験を聞き取ることにした。

今村雅彦さん(判決当時14歳): 「咳が止まらなくて、発作が止まらないというほどではなかったんですけど、苦しいときはありましたね」 山本秀人さん(判決当時13歳): 「光化学スモッグの注意報が出たりして、そうすると黄色いマスクをして下さいとか、空気清浄機を入れて下さいとか。大人たちは大変だったけれど、子供たちももちろん、うがいや乾布摩擦やランニングやいろんなことをやってましたけれども、そこまで切羽詰まった思いはなかったんじゃないかな」

伊藤さんたちは冊子にまとめて、今の子供たちに配る予定だ。 <冊子の内容> 「はしゃぎすぎると、息がヒューヒューしてきます」 「公害からに逃げるように、多くの家々は山の方面や鈴鹿市などに転出しました」

今も、公害認定患者307人が治療を続けている。

■四日市ぜんそくの教訓を無駄にしない…経済優先だけでなく「命の大事さ」に思いを

 伊藤さんは、新たな時代の流れに不安を感じていた。 伊藤さん: 「50年前に僕らも想定していなかったんですが、いま新たな問題が出てきているわけですよね。それは地球温暖化の問題と、カーボンニュートラルの問題が出てきたわけですよ」

伊藤さん: 「総量規制のことを考えればね、かなり思い切ったことをやってもらわないと。経済の問題というのは、公害も何もかも含めて、それは我々自身も考えないといかんですよね。何もかも経済が右肩上がりを永遠に要望しているというのは、どこかで頭を切り替えないと」 人の命や自然環境をどうやって守っていくのか。四日市で起こったことを無駄にしないためにも、忘れてはならない四日市公害の「教訓」。

伊藤さん: 「公害とは予期せぬところで出てきたわけですけれど、奇しくも“経済か命か”という問題は、公害の問題と共通する所があると思うんですよね」 裁判から50年が経ち、あの時の公害に対する怒りが薄れてきて、再び経済優先に傾いてきたのではないかと輝子さんも危惧している。 輝子さん: 「夜のあの(観光)船に乗るのでも、四日市が良くなって…。本当にきれいな夜景になって…でももう二度と乗りたくない。だって尚子が泣いているような、光がそう見えたんですもん」

輝子さん(語り部として): 「勉強も大事だけど、身体も大事に。しんどい時は親に言って、身体をよくして、それから勉強して。とにかく親より先に死ぬということは、一番の親不孝だと私は思います」

輝子さん: 「子供たちもわかってもらえれば。自分たちが幸せになっても、こういう人たちがいたと一瞬でも思ってくれるだけでも、尚子が救われると思って、私は老体に鞭打って頑張っております」 ※「判決50年展」 ・8月28日まで ・場所:「四日市公害と環境未来館」