大正時代から戦後復興期にかけて花街として栄えた尾久(荒川区)で芸者をしていた女性が、当時使っていた三味線を地元の専門店「三味線かとう」に寄贈した。歓楽街だった当時の面影を探すのが難しくなった尾久の街で、歴史を伝える資料として役立ててほしいと、託した。 (石原真樹)

 三味線は、小唄師匠の松峰照光こと宮坂久子さん(94)が芸者時代、けいこ用に使っていた。同じく芸者だった母親から譲られ、芸者見習いの「半玉」の頃から弾いていたという。

 宮坂さんは、十三歳から五十歳まで「小百合」の名前で芸者を務めた。尾久には日本初といわれた「芸者学校」があり、三味線や長唄のほか、英語などの一般教養もここで学んだ。

 芸者屋(置屋)と料亭、待合茶屋が集まる「尾久三業地」は、一九一四(大正三)年に西尾久の碩運寺(せきうんじ)でラジウム温泉が見つかったことを起源とする。前年に都電荒川線の前身・王子電気軌道が敷設され交通が便利になったこともあり、温泉旅館が次々にできて街が発展した。三六年には、猟奇的な事件として有名な「阿部定事件」の舞台ともなり、全国的に名前が知られるようになった。

 宮坂さんは正月に料理屋の百畳間を借り、下ろしたての着物で踊り、客をもてなした。柳橋や浅草の芸者を呼ぼうとしていた地元企業に「任しとき」と言い切り、尾久芸者のプライドを懸けて長唄「越後獅子」や民謡づくしを披露した。「『これだけ豪勢なのは初めてだ』と客に感激された」と懐かしむ。

 六〇年の時点で三十七軒の芸者屋があり、三百三十人の芸者がいたとの記録がある。しかし、高度経済成長期に入り、周囲に工場が増えていくと地下水のくみ上げで温泉が枯渇。歩調を合わせて花街も衰退し、華やかだった往時を知る住民は少なくなった。街を歩いても、記憶を伝える風景はほとんど残っていない。

 区の無形文化財保持者に登録されている「三味線かとう」の店主加藤金治さん(70)は、毎年「あらかわの伝統技術展」に参加するなど、地域の伝統文化の保存に精力的に取り組んできた。宮坂さんから三味線の寄贈について相談され、二つ返事で引き受けた。「芸者として生き生きとされていた頃のもので、尾久の歴史を伝える上で貴重。大切に飾っていきたい」と話した。

 三味線を見学したい場合は事前に連絡が必要。問い合わせは三味線かとう=電03(3892)6363=へ。