水戸市街地が米軍の爆撃機B29による攻撃で焼け野原となった水戸空襲から七十二年となった二日、戦争の悲惨さについて学ぶ講演会が、水戸市の県立歴史館で開かれた。市立博物館が企画し、夏休み中の子どもたちを中心に約百七十人が耳を傾けた。

 当時、三の丸国民学校(現・市立三の丸小学校)で教員をしていたという塩谷(えんや)みとりさん(92)が登壇。塩谷さんは初等科の三年生を受け持っていたが、毎日のように空襲警報が鳴り、まともに授業をできる状況ではなかったと様子を説明した。混乱が続き、別れを告げられないまま疎開していく子どももいたという。

 食料が足りず、毎日おかゆのような食事ばかり。学校では防空壕(ごう)を掘るなどの力作業もこなしていたため「おなかがすいてすいて仕方なかった」。着る物も不足し、「寝ても起きても同じ服を着ていた。何でも我慢我慢だった」と、戦時下の窮乏生活を振り返った。

 その上で、「戦争が起きると、ごくごく当たり前のことができなくなる」と指摘。参加した子どもたちに対して「戦後七十年の平和が続くよう、おじいさんやおばあさんから話を聞いてほしい」と語りかけた。

 終戦記念日の十五日午前十時からも、別の戦争体験者を招いた講演会が予定されている。 (越田普之)

水戸空襲 1945年8月2日、当時の水戸市域の8割が一夜で焦土と化し、約300人が命を落とした米軍の焼夷(しょうい)弾爆撃。米軍マリアナ基地から160機のB29が飛来し、午前0時31分から同2時16分まで約1時間45分、市内を爆撃した。空襲の2日前には米軍から爆撃予告のビラがまかれたが、憲兵や警察が回収してしまっていた。