今から七十二年前の八月六日。当時九歳だった木内恭子(ゆきこ)さん(81)=川口市在住=は、広島市内の路上で友達と遊んでいたとき、近くで爆発した原爆の閃光(せんこう)を見た。自身は奇跡的に無事だったが、友達の姿は消え、周りは血まみれの人と黒焦げの遺体ばかり−。木内さんは先月、被爆者の体験談をビデオ収録する事業に協力し、核兵器がもたらした惨禍を振り返った。 (杉本慶一)

 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市)では二〇〇三年度から、全国に住む被爆者の体験談をビデオ収録し、館内やインターネットで公開する事業に取り組んでいる。本年度の収録予定者は二十人で、うち二人が県内在住だ。

 木内さんへのインタビューは、蕨市にある県原爆被害者協議会(しらさぎ会)の事務所で行われた。同館の叶真幹(かのうまさき)館長らが見守る中、木内さんは淡々と語り始めた。

 「友達と石蹴りをして遊んでいたら『ピカッ』と光り、私は気絶した。息苦しい状態で目を覚ますと、一人でちょこんと、がれきの上に座っていた。周りの建物はぺちゃんこで、友達も誰もいなかった」

 爆心地から約一・六キロ。木内さんは頭や足にコブができたが、大きなけがはなかった。ぼうぜんとしていると、がれきの中から、血まみれの人たちがはい出てきた。みんな「助けて」とうめき声を上げ、近くの川沿いを歩き始めた。

 その行列の後についていった木内さんは突然、男の人から「ゆっこ!」と名前を呼ばれた。やけどした顔が膨れ上がり、誰だか分からなかったが、その人の手を必死に握りしめた。一緒に歩きながら川面に目を向けると、黒焦げの遺体で埋め尽くされていた。

 木内さんの父は広島刑務所に勤務し、敷地内の官舎が自宅だった。ようやくたどり着いたとき、一緒に来た男の人が、二歳上の兄だったと気付いた。

 当時は両親と兄、弟の五人暮らし。兄のやけどは重症で父も母も大けがを負ったが、みんな一命を取り留めた。被爆時に一緒にいた友達は助からなかった、と思っている。混乱の中、消息をたどる余裕はなかった。

 終戦後、父の実家がある茨城県に移り住んだ。木内さんは看護師になって結婚し、約五十年前に川口市に転居した。現在はしらさぎ会の副会長を務め、県内の高校などで自身の被爆体験を語り継いでいる。

 インタビューは一時間余り。「原爆の事実を知らない人に、何を伝えたいですか」。そう問われた木内さんは、少し力を込めて答えた。

 「私たち被爆者が体験を語らないと、戦争のことも原爆のことも今の人たちに伝わらない。私たちが語っていき、それを聞いた人たちが次の世代につないでいくようになれば」

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 木内さんらの体験談はDVDに編集され、来年度に公開される予定。