富士山クラブは、富士山の清掃を主目的として一九九八年十一月に設立されたNPO法人であり、今年創立二十周年を迎える。当時、富士山は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界自然遺産登録を目指していたが、あまりにひどいゴミの山であったため、その登録申請は一蹴された。

 そういう状況の下で富士山クラブは出発した。しかも、日本を代表する霊山がこのままでは日本の恥ともなりかねない。ここは何としても、富士山を国土保全のシンボルとして清浄化する必要がある。そこで、三、七七六メートルの頂上から三保の松原まで徹底的な清掃を目指す運動の実行部隊として結成されたのである。

 当時、富士山八合目から九合目あたりの山小屋は、小屋の周辺に近づくと、プーンとトイレの悪臭がただよい、それはもうひどいものであった。最盛期には一畳に三人近くの客をつめこむという江戸時代から続くボッタクリそのものの経営であり、その悪慣行は社会の批判の的であって、ようやくトイレ改善が環境省の指導で始まった。

 夏の富士山は今では全山黒々としているが、当時の富士山は遠くから見ると、頂上近くの山肌には残雪のような白い筋がくっきりと刻まれていた。実はそれが流されたトイレットペーパーの帯だったのである。遠くから見る富士山は美しいが、近くで見る富士山は醜悪だと言われたのはもっともであった。

 二十年間のゴミ拾いは、統計的には、参加したボランティア七万二千人余り、ゴミの総量八百三十トン余りに達した。ゴミ拾いの回数は年平均六十回を数える。その結果、表面上目立つゴミはほぼゼロとなったはずだったが、二年ほど前から頂上付近にゴミが目立つようになってきた。外国人登山客の急増のせいである。

 それどころか、ボランティアではどうにもならない大量の産業廃棄物の山が千六百カ所もある。表面を土がおおい、草や木が茂って、一見したところ森の一部と化している。ボランティアには危険すぎて、手にあまる。リストを作成し当該自治体に通知している。

 二〇〇五年十月以来、ぼくは当クラブの理事長を十二年間務めてきたが、今年理事長を辞任し、設立以来空席だった会長に就任した。この間の感想を一言だけ述べると、山麓の住民の無関心と東京の人間の熱意という意欲の格差であった。

 富士の麓まで出かけ二時間程度軽く汗を流してゴミを拾い、その前後雄大な景色を楽しみながら、ちょっとよいことをした気分に浸る都会人の心情に対し、見慣れた風景の中でわざわざ汗を流すことはないと思う地元民の考え方の違いであろう。

 しかし、江戸時代富士講に熱狂し、数多くの富士塚を築いた江戸人の心情を思えば、それではすまされない。まして、世界文化遺産に登録された今となっては、なおさらである。

 「ふるさとの富士」として親しまれる山は、栃木にも、下野富士とか日光富士と称される「男体山」をはじめとして、「芳賀(はが)富士」「中村富士」「須巻(すまき)富士」「新湯(あらゆ)富士」がある。これらの清掃も「富士の清掃」というべきプルス・ウルトラであろう。

<おくしま・たかやす> 愛媛県日吉村(現鬼北町)生まれ。早稲田大第一法学部卒。同大第14代総長。同大ラグビー部長、探検部長、日本私立大学連盟会長、日本高校野球連盟(高野連)会長などを歴任。ボーイスカウト日本連盟理事長、2013年から白鴎大学長。79歳。