2017年の東京を生きる大人の女性が、悔いなき人生を歩むために身につけるべき「品格」とは?

30歳で婚約破棄。未来に絶望した千晶は、ナンタケットバスケット教室「エーデルワイス」を主宰する高貴な妻、白鳥雪乃と出会う。

千晶は後輩・あずの紹介で出会った正木からデートに誘われるが、結婚し子どもを産み育てることが女の幸せだと言わんばかりの彼の態度にどうしても違和感を感じてしまう。



咄嗟についた嘘


「ああ、やっぱり働いた後のビールは最高!」

からっからに乾いた喉を潤すべく、千晶は一瞬でグラス半分まで飲んだ。

今日は表参道で、千晶が担当する某大手家電メーカーの新製品発表会があった。

半年前から準備を重ねてきたイベントで、実務のほとんどを社長から一任(丸投げ)されていたものだから、やりがいがある分プレッシャーも感じていたのだ。

それが滞りなく無事に終わり、千晶は今、後輩のあずとともに表参道『CICADA』のテラスで大いに開放感を味わっている。

「やっぱり私、一生働くわ。この喜びを失わないために」

思わず口から漏れた言葉は、強がりではない。

先日、正木とのデートで感じてしまった違和感。結婚し、子どもを産み育てることが女の幸せだと、当たり前のように語る彼に千晶は恐怖すら感じた。

この人とは相容れないと、本能が叫んでいた。

「先輩…主婦になり母になればなったで、また別の喜びがあるんですよ」

向かいに座るあずが、呆れ顔で続ける。

「まったく、正木さんみたいな優良物件を自分から断るなんて。…先輩、まさかとは思うけど、浮気者の元カレと復縁したりしてませんよね?」

「し、してないわよ、そんな…」

咄嗟に嘘をついたが、誤魔化しきれただろうか。

あずは妙なところで勘がいいから、困る。


あの夜、涼ちゃんと再会した千晶は結局…

正木と別れた後、涼ちゃんと再会した千晶は…


ー数日前ー

「千晶、会いたかった」

隅田川沿いをふらふらと歩いていた千晶を、涼ちゃんは背後から包み込んだ。

その瞬間、千晶の中で長らく渦巻いていた、疑い、嫉妬、不安などの負の感情が一気に消えていく。

−ああ私、ずっと涼ちゃんに抱かれたかった。

抗いようのない本音に気づいてしまったら、もう強がっていられなかった。私は、やっぱり涼ちゃんが好きなんだ。そう認めるほかない。

「私も、会いたかった」

涼ちゃんは、ぜんぜん紳士じゃない。

泥酔もするし、テレビを見たままソファで寝ちゃうし、『ナベノ-イズム』を予約してくれるどころかきっと存在も知らないだろう。

しかし人が誰かを好きになるのに、理由などないのだ。

弁護士でも、爽やか好青年でも、イケメンでも、正木のことは好きになれない。

「俺、千晶がそばにいないとダメなんだよ」

自分が浮気しておきながら何を言っているのだと思いはしても、そんな風に必要とされたら、千晶は彼を放っておけない。

結婚相手として手ごろだからとか、子どもを産んでくれる相手としてではなく千晶自身を認めて愛してくれる涼ちゃんの存在が愛しい。



「あら千晶さん、良いことがあったの?」

日曜日、ナンタケットバスケット教室「エーデルワイス」に到着した千晶を、雪乃はそんな言葉で出迎えた。

彼女は時々、占い師か何かのように千晶を見透かすことを言う。

東京は暑い日が続いていて、白金台の駅から10分歩いたら汗だくになってしまった。

しかし「エーデルワイス」に限っては都会の猛暑とは無縁のようだ。

パフスリーブの、白いシフォンワンピースに身を包む涼しげな雪乃を前に、千晶は軽井沢の別荘に訪れたかのような錯覚に陥る。

「良いことかどうかは…微妙です。幸せな結婚から遠のいた気もするし」

言い訳するように答えた言葉は彼女の耳には届かぬようで、前を歩く雪乃のたおやかに揺れるシフォンの狭間に消えていった。

−雪乃の夫は、どんな人なんだろう。

彼女の後ろ姿を眺めながら、千晶は想像する。

そのことについては、「エーデルワイス」に集う生徒の間でも度々議題に上っていた。しかし誰一人として真実どころか、雪乃のプライベートを知るものはいない。

雪乃は徹底して、自分のことを話さない。

お稽古教室などという利益度外視のビジネスをしている時点で、稼ぎの良い優しい夫に好きなことをさせてもらっている…そんな勝手なイメージがあった。

それゆえ雪乃のことを勝手に既婚者と決め付けているが、実際は未知である。

「私も先生のように、好きなことを自由にさせてくれる人と結婚したい」

雪乃の私生活を探るなどという大それた意図はない。ただ心に浮かんだ思いが口から溢れた。

すると雪乃は嫌な顔こそしなかったが、不本意そうに千晶を振り返ると、こんなことを言うのだった。

「千晶さん、自由は自立とともにあるのよ」


自由は自立とともにある。その真意を、千晶は思い知る。

自由は自立とともにある


この日のレッスンでは、ようやく半分の深さまでバスケットを編み上げることができた。

まだ先は長いが、完成形が見えてくると俄然やる気が出る。

正直なところ千晶自身、自分が「エーデルワイス」に通い続けるとは思っていなかった。

教室に集う生徒たちとの関係は深まってきたものの、やはりどう考えても千晶だけ毛色が違う。

レッスン中に交わされる会話のほとんどは、家庭の話だ。もしくは、オススメのお取り寄せスイーツ情報。

家庭の話はもちろん甘党でもない千晶はまったく関心を持てず、ひたすらバスケットを編む作業に没頭している。

それでもこうしてほぼ毎週訪れている理由は、やはり千晶がエーデルワイフと名付けた、高貴な女性・雪乃の存在が大きい。

結局、雪乃のプライベートは未だ謎のままだ。

彼女のような女性がどういう人生を生きているのか、興味をそそられる。



「千晶さん、良かったらこの後少しお茶しません?」

レッスン終了間際、結衣に声をかけられた。

先日、千晶は結衣の夫に関する疑惑を追及してしまったから警戒しているのではないかと思っていたが、彼女の表情は普段と何も変わらない。

「もちろん、ぜひ」

千晶が即答すると、結衣は顔の前で両手を合わせ嬉しそうに笑った。

「嬉しい♡」

そのいちいち可愛らしい仕草も、これまではわざとらしく感じ冷ややかに見ていた千晶だったが、今日は不思議と寛容になれる。

それはやはり、雪乃のいうとおり「良いこと」があったからかもしれない。



「千晶さんって、どんなお仕事をされてるの?」

帰り道に立ち寄ったプラチナ通りの『アーヴィング プレイス』で、結衣はしきりに千晶の仕事の話を聞きたがった。

つい先日やり遂げた某家電メーカーの発表会のことなどを話すと、「すごーい」「かっこいい」などと大げさに感嘆する。

しかし目を輝かせて先を聞きたがるその様子は、多少芝居がかっているとはいえ本心であるように見えた。

「興味があるなら、結衣さんもお仕事してみたらいいのに」

一度も働かぬまま30代を迎えた結衣が職を見つけるのは困難だろうが、やりたい気持ちさえあるなら、できぬことはない。

しかし千晶のその提案を、結衣はすぐさま否定した。

「…働くのは、主人が嫌がるの」

結衣の口から出た「主人」という言葉を聞いて、千晶は深夜の六本木で出会った男を思い出す。

派手な装いで、派手な女を連れて六本木を闊歩していた結衣の夫。

「それに…私に仕事は無理よ」

首を振りながら俯く結衣に「そんなことはない」と言いたい気持ちを、千晶はぐっと堪えた。

−自由は自立とともにある。

ついさっき、雪乃が言った言葉が思い出される。

結衣の人生に自立という文字はない。これまでも、これからも。しかしそれは彼女が選んだ、彼女らしい生き方なのだ。

…その代償として、たとえ自由がなかったとしても。


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涼ちゃんと復縁した千晶。しかし、次なる試練が訪れる。