出世したい―。

サラリーマンである以上、組織の上層部を狙うのは当然のこと。

だが、仕事で結果をだすことと、出世することは、イコールではない。

そんな理不尽がまかり通るのが、この世の中だ。

出世競争に翻弄される、大手出版社同期の2人。

果たして、サラリーマンとして恵まれているのは、どちらだろうか。


秋吉直樹(34歳)は同期の武田壮介から引き継ぎ、作家・西内ほのかを担当することになった。最初は不服だったが出世のためと割り切り、仕事に打ちこもうと決めた。



「あっついな〜……」

飯田橋駅を出て、外堀通りと大久保通りが交差する信号。

直樹はそこで、信号が青に変わるのを待ちながら、ギラギラと照りつける太陽を睨むように見上げた。

直樹が出勤するのはいつも、太陽が一番高くにある時間帯。

朝が苦手な直樹にとってはちょうど良いリズムだが、真夏のこの時期は会社に着くまでの間に、1日の半分近くのエネルギーを消耗している気がする。

目の前には見ただけで暑苦しさを感じる、黒いスーツに身を包むサラリーマンが立っている。

髪の毛先は濡れ、粒になった汗がぽとりと肩に落ちるのが見えた。

―スーツ、大変だよなぁ……。

暑さでぼーっとする頭でぼんやり考えた。

直樹は、今でこそ編集部に所属しているためスーツなんて滅多に着ないが、営業部にいた頃は毎日スーツを着て都内を歩きまわっていた。

スーツは、サラリーマンの象徴だ。

亜熱帯気候になろうとしている夏の東京で、スーツを着続けるなんて愚行だ―。

そう騒ぎ立てるアンチスーツ派のコメンテーターや何かの評論家も多く、直樹もその考えには大いに賛成だ。

だが、東京がどんなに灼熱の地になろうとも、スーツを着たサラリーマンが消えることはないだろう。

―サラリーマンには、無駄な慣習が多すぎる。

スーツもそうだし、飲みにケーションと言われる酒の付き合いもそうだ。

そんなことを考えると決まって頭に浮かぶのは武田の顔だ。直樹にとって武田は、日本のサラリーマンの象徴だった。


上司から気に入られる、武田の世渡り術。

体育会系男・武田の世渡り術


「最近気づいたんですけど僕、ミスチルの桜井さん以上に“クロスロード”歌ってますよ」

武田は、社内でも有名な石原部長から毎日のように招集されるお陰で、宴席でのエピソードには事欠いておらず、最近の決まり文句はそれだった。

武田は、基本的に上の人間から可愛がられていると自負しているが、その中でも特に目をかけてくれているのが、営業部の石原部長だ。

石原部長がまだ課長だった時に、武田は石原の下について、それ以来週3回以上のペースで飲みに行っている。

石原部長は文京区に大きな実家があり、育ちも良い42歳。だが、“お坊ちゃん”というよりも、大学でラグビーをやっていた、根っからの体育会系。

不動産所得があるらしく、羽振りもよく飲み方が豪快で、部長のペースについて行ける男はなかなか居ない。

だが、武田はちゃんとついて行っているのだから、部長にとってはやはり、重宝する存在なのだろう。

奥さんの希望で、永らく広尾の低層マンションに住んでいるとういう部長が飲みに繰り出すのは大抵港区だ。

元来、酒と食事が好きな部長は、焼き鳥、鮨、焼肉、イタリアンと、毎晩色んな店に繰り出す。

武田と2人で行くこともあれば、仕事関係の人間や部長の友人も交えるなど、そのメンバーは様々だ。

大抵、2軒目は西麻布の交差点から青山方向に少し歩いた場所にあるバーに行き、3軒目は西麻布の業界人が好んで使うような個室カラオケに行く。

そこで、気分がよくなった部長は必ず、武田にこう告げるのだ。

「武田、クロスロード」と。

この一言が出ると武田は、迷いなくリモコンを掴み取り曲を入れる。

そして、心を込めて熱唱する。

桜井さんと声質が似ているらしく、ミスチルはいつ、誰を相手に歌っても拍手喝采を得る自信がある。だから部長も、聞いていて気持ちが良いのだろう。

部長は、武田が歌う“クロスロード”を大層気に入っているらしく、「武田、クロスロード」という言葉が一晩で2回、3回と繰り返される。そうしてあの言葉が生まれた。

「たぶん僕、桜井さんよりクロスロード歌ってますよ」と。

ひと晩で3回、それが週に3回、ひと月で36回……。そんな夜をもう数年繰り返している。

他にも、大人数で飲んだ時武田が一芸を披露することになり、咄嗟にアキラ100%の真似をしたこともある。

もちろん、一糸まとわぬ姿で。

場は盛り上がり、石原部長も満足そうに笑っていた。その笑顔を見て、武田はほっと安心するのだった。


同期女性にまで嫉妬する直樹。

「お前、よく毎晩付き合ってられるな」

武田が、同僚たちに何度となく言われた言葉だ。だが、小学生から高校3年まで続けた野球で、体育会系気質と縦社会のルール「先輩の言うことは、絶対」が叩き込まれた。

そのマインドが、骨の髄まで沁み着いている。

それに、武田は純粋に石原部長を慕ってもいる。上司であれば誰彼構わず身を粉にするつもりもない。

石原の部下になった当時も、特に気に入られようと思っていたわけでもない。元来、飲みの席を盛り上げるのが好きなだけなのだ。


唯一仲の良い同期にまで、嫉妬してしまう文系男


直樹は、仕事を終えると同期の真鍋よう子と会社近くの『十六公厘』に入った。



直樹が社内で唯一飲みに行く相手・よう子が、ここのシュウマイを気に入っており、一緒に食事して帰る時は大抵この店を選ぶ。

よう子も同じ34歳。30歳の時に大学から付き合っていた男と結婚したが、子どもはおらず仕事ばかりしている。

夫婦仲は良好で、長期休暇には必ず旦那と海外へ行っている。

「どうなのよ、新しい部署は」

1つ目のシュウマイをごくりと飲み込み、よう子が聞いてきた。

「どうって、まだ武田の尻拭いだよ。そっちは?」

よう子は、この数年会社が特に力を入れているデジタル戦略部でアプリの開発などを担当している。

「もう長いから仕事は落ちついてるんだけど……」

今日のよう子は歯切れが悪い。なんだよ?と聞くと、大きく息を吐きながら言った。

「それがどうも、管理職候補に私の名前が挙がってるらしいのよ」

管理職候補という言葉に、ついぴくりと反応してしまった。

「よう子が、なんで?」

「あれよ、女性活躍推進法対策で、会社としては女性管理職を増やしたいのよ。でも私、下手に出世なんてしたくないんだけど」

よう子は面倒そうに言うが、直樹の心中は穏やかではない。

「仕事は一生続けたいけど、だからこそ重責は避けて、細く長く続けたいのに」

直樹からすれば、なんとも勝手な言い分でしかない。

「いいじゃないか、そんなレール敷いてもらえるなんて」

正直な気持ちを言うと、直樹の出世欲の強さをよく知っているよう子は複雑な顔をした。

「そういえば武田くんの結婚式、ついに来週だね。きっと彼、またミスチル歌うんでしょうね」

よう子は気を遣って話題を変えたつもりらしいが、この言葉を聞いて直樹の気分はさらに重たくなるのだった。


▶8月1日 火曜更新予定
盛大過ぎる武田の結婚式。出世候補筆頭の武田の式とは?